思想兵器としての教科書2


アメリカ史に関する考え方を試す簡単なリトマス試験紙は、次の2つの出来事について(教科書が)どう説明しているかを調べることである。つまり、(1)連邦主義者と反連邦主義者の論争、(2)リンカーン政府と南北戦争の結果。

親連邦主義者の教科書は、中央集権民族国家を教えるツールである。マズィーの教科書は、ビジネスにおける「おとり商法」と呼ばれるものの好例である。

1922年版では、まず「1788年」というおとりが提供される。


憲法は簡潔・明瞭・単純である。政治学の観点から見て、その独特な価値は、州政府を破壊もしくは吸収することなく、新連邦政府に主権を与えたという方法にあった。(145ページ)

次に、「1861-65年」という罠が用意される。

わが国は、その試練の過酷な炎の中で溶け合い真のユニオンとなった。州の連邦は、国民国家に置き換えられた。その戦争は、単に北部の南部に対する勝利だけではなく、自由の奴隷制に対する勝利でもあった。また、それは、民族主義の、州の権利に対する勝利でもあった・・・。(613ページ)

この解釈は、実際に、アメリカ史における「おとり商法」の最高傑作が生み出したもの――つまり、1787-88年(の憲法会議)――を反映している(http://www.demischools.org/philadelphia.pdf)。

マズィーの教科書の問題は、おとり商法の過程を弁護しているという点にあるのではなく、おとり商法をおとり商法として認識していないという点にある。

その過程に関するマズィーの教科書の説明を読むと、彼がそれをクーデターであることを認識しているということが明確に分かるが、しかし、彼はそれをクーデターの名で呼ぶことは拒んだ。

マズィーの教科書は、主要な公立学校向け教科書出版会社Ginn & Coから出た。1893年に、この会社は、コロンビア大学の憲法史学者ジョン・W・バージェスのPolitical Science and Comparative Constitutional Law, vol. 1, Sovereignty and Libertyを出版した。

バージェスは、マジソンとその仲間たちが1787年に行ったこと(クーデター)を率直に認めた。

アメリカ人の指導者たちはついに、アメリカという国の全体的な問題について慎重に検討するために呼び集められた。彼らは、空しい好奇心や大衆の粗野な批判から自らを守るために扉をしっかりと閉め、決定に多数決の原理を採用し、アメリカを再編し、まったく新しい中央政府を作るために会議を始めた・・・。

アメリカ連合国臨時議会や連邦立法府や一般大衆は、この会議でそのような問題が議論されているとは理解していなかった。一般人は「彼らは、連邦政府の仕組みを改善し、その権力をいくぶん拡大するために集まっているのだろう」ぐらいにしか考えていなかった。

さらに、彼らが提出しようとしていた憲法の最初の基礎としてアメリカを再編するには、彼らにとって合法的な方法は一つしかなかった。つまり、その計画を「原案」として臨時議会に提出、臨時議会がそれを採用、連邦立法府に推薦、最後にすべての連邦構成州の立法府が承認、という手順であった。

このようにして合法的に確立された場合、新しい主権は、政府・・・が何らかの計画を採用する場合に訴えるべき合法的・合憲的な権威となれたはずであった。

しかし、憲法会議はそのような方法をまったく取らなかった。会議が実際に取った方法とは、すべての合法的に組織された権力の頭越しに・・・憲法制定の権能を帯び、政府の憲法・自由の憲法を制定し、それについて「国民投票」の実施を要求することであった。もしユリウス(カエサル)やナポレオンがこのようなことをしたならば、彼らは自らそれをクーデターと宣言したことだろう。

「国民投票」をする人々の側から見れば、この動きを革命と呼ぶべきだろう。憲法会議は、その活動と権力の横領を私が使ったのよりも穏健な名前で呼び、私が示したよりももっと合法的な方法に従うと宣言していた・・・。もちろん、一般大衆は、この手順の真の性格を分析することなどまったくできなかった。会議のメンバーの多くは自分たちが行っていることを完全には理解していなかった・・・。しかし、実際に、会議は「国民投票」の実施を要求することによって、議会と立法府から活動の自由を奪ったのである。

これらの組織は、会議の要求に無条件で従わない限り、自分の存在基盤を侮辱する必要に迫られたのであった。(pp. 104-6).

教科書は、耳障りの悪い真実を聞く用意ができている学者向けの論文ほど率直ではない。

南北戦争とは、1787-88年のクーデターの絶頂であった。それは、1787年に連邦主義者が意図的に隠したこと――つまり、憲法とは、アメリカの政治的中央集権化への踏み石である、ということ――を明らかにした。

反連邦主義者は、このことをよく理解しており、警告を発していた。パトリック・ヘンリーは、その中でも最も優れた人物である。しかし、歴史書は、勝者によって記される。反連邦主義者は、1788年以来ずっと、変人または「信仰の薄い人」(アドレンエ・コッフ)として退けられてきた。

60万人もの死者(1861-65年)が出ても、反連邦主義者の警告は、1788年の霊的子孫には受け取られなかった。勝者は、1865年以降の教科書も書き続けた。

 

 

2006年12月7日

 

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