聖書的な教育だけが世界を回復できる2
なぜ血なのか。
血は、いのちを象徴する。
旧約律法において、神は血のついたままのものを食べることを禁止された。
「いのちは神に属する」という意味だ。
月経中の女性との交渉も禁止された。
夫婦の絆においてすら、神が主であることを示すためだ。
神とその御民との関係は、血による団結である。
血は、人間のもっとも根源的な部分において行われるもっとも重要な団結であることを象徴している。
殺人は、それゆえ殺害相手を所有することを意味する。
神だけが人の血を流すことができる。
なぜならば、人は神の所有だからだ。
人間が人間の血を流すことは、神にのみ属する権利の横領である。
殺人は、神に対する最大の挑戦である。
それは、自らを神とする行為だ。
だから、最大の罰を受ける。
つまり、神は殺人者を処刑することを命じられた。
殺人者を処刑するときに、社会は、「本当の命の所有者は神である」ということを示す。
こういう社会だけが、神の前によしとされる。
殺人者を処刑しない社会は、「命は神に属さない」と宣言しているので、その社会が処刑される。
聖書を貫いている思想は「血はいのちを象徴し、いのちは神だけに属する」である。
キリストが十字架で血を流されたことは、神のもっとも根源的な価値を人間のために差し出されたことを示している。
雨を降らせ空気を提供し、太陽の光を与えることによっても神の愛は表現される。
しかし、それらは血とは比較にならない。
神がご自身の血を流されたということは、神の本質的なもっとも重要なものを人間に提供するほど人間を愛しておられることを示す。
だから、聖書的な社会は、殺人者を必ず処刑しなければならない。
血を軽視する社会は、神の犠牲を軽視する社会である。
2009年12月8日
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