反セオノミストは御言葉から議論せよ


> このところ目にするセオノミーについての感想を少しばかり。
>
> アンチセオノミストにとってガラテヤ書やヘブル人書、ローマ人書などは律
> 法廃棄の根拠になるようですが、私は何度読んでもここから律法のすべてが
> 廃棄されたとは読めません。これらは、罪の赦しは律法の行いによらずキリ
> ストの十字架によることを明らかにしているところです。
> 立場が違えば、同じ所を読んでも見解は180°違うのですね。

アンチセオノミストは、いろんな個所を挙げて自説を論証しようとしますが、決定的な間違いは、こちらが挙げたパウロの律法肯定発言についてまったく説明しないというところにあります。

「信仰は律法を廃棄しない」とはっきりと述べている彼の発言をどう解釈するのか?
それを知りたいとこちらが述べているのに、触れようとしません。


> また、ある再建主義批判者は、ことさら「堕胎者や同性愛者の公開処刑」を
> 強調することによって、読者の情意に訴え、再建主義者(というかセオノミ
> スト)が非情な輩であるかのような印象を与えて、これを危険だとしていま
> すが、これはアンフェアな批判だと思います。
> 批判するなら「聖書によると現代において律法は無効である」ということを、
> “聖書から”論じ、証明すればよいのです。

そのとおりです。
彼らのやり方は、議論によるのではなく、感情操作によって人々の気持ちを反セオノミーに向けさせることであり、単なるアジテーションであり、明らかにアンフェアです。
どんなにアジテーションしても、御言葉が無効になることはありません。
パウロがエペソにおいて、群集のアジテーションに巻き込まれましたが、結局、勝ったのは、アルテミスではなく、キリスト教でした。
サタンは、世論を誘導しようとしますが、御言葉の真理に勝つことは絶対にできません。
「神の口から出たことがむなしく神のもとに返って来ることはない」のです。


> そして、もし聖書によると「現代において律法は無効である」と結論づけら
> れるのならばそれで十分な批判になるわけで、ここで「堕胎者や同性愛者の
> 公開処刑」を持ち出すのは「聖書の基準」よりも「現代人の感覚」へ焦点を
> 逸らしていると言わざるをえません。

そのとおりです。
彼らは、「人間理性至上主義者」であり、彼らの宗教は、啓示宗教ではなく、自然宗教です。
啓示よりも人間の頭の創作を信じている時点で、すでに彼らがクリスチャンではなく、彼らが歴史的キリスト教を捨てていることは明らかです。

> ちなみに、聖書の律法が今も有効であるなら、「堕胎者や同性愛者の公開処
> 刑」は神の基準に基づくものになるわけですから、「同性愛者や堕胎者を処
> 刑するのはやりすぎだ」とか「公開処刑なんて酷い」などとは、どのような
> 人間も主張することは許されません。それがどんなに“酷い基準・処刑方法
> だと感じ”たとしても、これは神の方法なのですから私たちはそれに服する
> 以外に選択肢はありません。

そのとおりです。
神と御言葉を裁くことができる者は誰もいません。
神を裁くことは、被造物に許される行為ではありません。
被造物である我々に残されているのは、御言葉をそのまま最高権威として受け取り、それに従順に従う以外にはありません。
これが危険であるというのであれば、「聖書の神は危険な神だ」と述べているのと同じです。
あなた一体何様のつもり?と聞きたいところです。

> 律法が今日も有効であるという立場からは、「堕胎者や同性愛者の公開処刑」
> は神の方法ですからこれに従います、といってるだけのことですが、批判者
> は論点をすり替えており、この点がアンフェアだと感じる所以です。

そのとおりです。
彼らは単なるアジテーターであり、議論を放棄しています。
彼らは、はっきりと「私達はクリスチャンではありません。」といえばよいのです。
そうならば、議論は首尾一貫していますが、クリスチャンでありながら、聖書の命令を否定するのですから、実のところ、自分と他人をごまかしているわけです。
クリスチャンであり続けたいならば、聖書から論証すべきです。
アジテーションはアジテーションであり、街頭でガンガン軍歌を流している人々と違いはありません。

> 神の御心が明らかになるためには、どのような主張に対しても批判は必要だ
> と思いますし、その批判に対して聖書からしっかりと反論することで、主張
> は練られ、真理が見えて来るものだと思うのですが...
> 反再建主義者による再建主義批判は、は再建主義者のことを極端だと切り捨
> てますが、実は自らの極端な再建主義理解に基づいて批判するという的はず
> れなものが多いようで、あまり益にならないのが残念です。

そうですね。
まず、批判者には冷静な頭が必要です。
冷静な頭を持つには、自分の意見を脇において、まず相手の主張を正確に理解するために努力する必要があります。
しかし、彼らは頭がカッカしているので、こちらの主張を理解できません。
誤解のまま突っ走るから、こちらが述べてもいないことを述べたと主張する。
だから、話しても無駄なのです。


> 律法が今日において有効であるか、無効であるかはとても重要なテーマだと
> 思います。私は神の律法=基準は今日においても有効であり、大原則になる
> と信じますし、これによらずして神の御心に添った社会は実現しないと考え
> ます。(プレミレの立場であれば、神の御心に添った社会は実現しなくても
> 結局はキリストの再臨ですべてをひっくり返してもらえるわけですから、問
> 題は無いのでしょうが...)

そのとおりです。
この問題は、神の言葉に関するものですから、この世の中の何にもまして重要であり、これにどのような態度を取るかによって、その人や社会の運命は決定されます。
彼らは、公開処刑が残酷だと言うかもしれませんが、聖書が公開処刑、しかも、市民が処刑に参加するように求めています。
処刑の様子を公開すること、そして、市民がその処刑に参加することが残酷だと感じるのは、「今の人間の感覚」で判断しているからです。
このような「感覚」は時代とともに変わります。
人間の感覚は絶対ではないのですから、そんなもので御言葉を評価してはならない。
我々は、「しもべ」なのです。
神は、主人なのです。
しもべが主人の命令に従うことは当然のことです。
主人の言うことに従いたくない、という心情は、「彼らは心の中において神に逆らうノンクリスチャンである」という事実を露呈しています。
つまり、彼らは聖霊によって生まれ変わっていないのです。
だから、彼らのうちには神の心がない。

> そのようなわけで、tomi先生をはじめ、セオノミストの先生方の聖書律法の
> 研究に、聖霊の導きと助けがありますようにお祈り申し上げます。

尊いご支援を感謝します。

 

 

2004年8月31日

 

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