出発点を慎重に選んでから行動しよう


どのような運動であっても、根拠が薄弱ならばそれなりのものにしかならない。

共産主義を採用した国が100年もたたないうちに駄目になるのは、理論が間違っているからだ。

国に権力と金を集中して、恵みとして人民に分配する形で経済が成立するわけがないじゃないか。

市場は競争で成り立っている。

一国が競争を回避して、閉鎖的な市場を形成し、その中で生産者がある生産物について独占をし、他に競争相手を作らない体制で、どうして生き残ることができるだろうか。

私はソ連に1年間住んでいたのでわかるが、品不足と品質の劣悪化と値段の高騰が起こる。

競争があってこそ人々はすぐれた製品を享受できる。

業者は、工夫をして安くてよいものを提供する。

その努力に対して市場は商品を購入することによって報いを与える。

人々によりよく奉仕した企業が繁栄し、奉仕しなかった企業が滅びる。

こういった淘汰によって、市場がどんどんと成長し、強い競争力を持つ。

ソ連一国で閉鎖市場を作り、情報を閉鎖した。人々は、他の国の製品のほうがいいということをだんだんと悟るようになり、金をためて外国人に会う機会を狙っている。

我々が歩いていると、毎回何人もの人から声をかけられた。

最初はびっくりしたが、日本製の物を買いたいということだった。

時計、ジーンズ、カセットデッキなどいろんなものをねだられた。

情報と商品を閉鎖し、人の交流を禁止する体制は間違った体制であり、それゆえ早晩必ずつぶれる。

我々は、何かを実行する前によく考えなければならない。

誤謬に基づく体制は絶対に長続きしない。

ヒューマニズムの体制は、嘘と情報閉鎖によって成立している。

ヒューマニズムの基礎は、カント哲学であるが、カント哲学は、人間の知識の限界を自覚した。

人間は、科学によっては、死後の世界や神の世界、意味の世界など知る方法がないとあきらめた。

だから、「我々は、人間の知識だけに頼って世界観を作ることはできない」といったん認めているのだ。

「死後の世界について我々は科学では証明できない。だからそれについては知ることはできない。」と認めている。

しかし、彼はこういった。「客観的な世界観は作れない。ならば、人間にとって意味のある世界観を作ろうではないか。」と。

ヒューマニズムの世界観とは、「開き直り」の世界観である。

「死後の世界はわからないから、『死後の世界はない』ということにしよう」とか。

人間だけで成立する「人間のための、人間による、人間の」世界観を作ろうとした。

それでできた教えが、今日あたかも客観的な事実であるかのようなふりをして堂々と学校で教えられている。

だから、勘違いした学生が、「神はいない」とか「世界には普遍的な意味はない」とか言う。

ヒューマニズムは、「わからない」という点から出発したのに、いつのまにか「わかっている」「わかることができる」というようになってしまっている。

「理性的であれ」といいながら、ぜんぜん理性的ではないのだ。

だから、ヒューマニズムとは、硬い岩ではなく、泥なのだ。

みんな泥の上に家を建てている。

聖書的キリスト教は、確実な土台から出発するので、徹頭徹尾首尾一貫している。

死後の世界は、全知全能の神による啓示によって知ることができると考える。

人生の意味やものごとの価値は、聖書に啓示された価値観によって決定される。

聖書は、岩であり、硬い土台である。

だから、我々は出発点を神の啓示においているので、確実な思想を身に着けることができる。

確実な思想があれば、その先は、実践である。

聖書の世界観にしたがって実際に活動することだ。

このような確実な土台がないままにスタートすると、我々は人生を台無しにしてしまうだろう。

オウムの世界観にしたがって人殺しをした人々は、出発点をいいかげんにしたという種を刈り取ったのだ。

行動する前に、よく考えよう。

そして、何が確実であるか、真実であるか。

しっかりと確認した上で人生においてかける対象を見つけよう。

 

 

2010年3月13日

 

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