狭い門



狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7・13-14)

モーセに率いられた民は、紅海をくぐった後に、カナンへの旅を始めた。

紅海は、赤い海であり、キリストの犠牲の血を象徴する。それは門だ。

奇跡によって分かれた海の底の道を通らない限り、救われることは絶対にない。

異教は、紅海をくぐる必要はないという。

自分の力で救われると。奇跡など必要ないと。

我々が救われて御国に行くには、血の犠牲を必要とする。

神道において茅の輪くぐりという儀式があるのは、聖書から来ていると思う。

茅の輪は「血の輪」なのだろう。

血の輪をくぐることは、すなわち、キリストの犠牲を受け入れることを意味するのだろう。

茅の輪は鳥居にくくりつけられる。つまり、鳥居とは、血の輪なのであり、それは、血の犠牲を示しているのだろう。

我々はまず最初に血の犠牲を受けるべきだ。

ユダヤの幕屋では、門のところで犠牲の動物が殺された。

門が贖いの死を象徴するという意味で聖書と神道は類似している。

この血の門から入る人は少ない。

みな他の門から入りたがる。

広い門だ。

なぜ広いほうを選ぶかというと、身をかがめる必要がないからだ。

茅の輪くぐりは、「くぐる」のである。

暖簾をくぐるときに、我々は頭を下げる。

身を低くしない限り、暖簾をくぐれない。英語で「くぐる」は、pass underである。

狭い門とは、低い門でもある。キリシタンと関係があることがわかっている茶道では、小さな門から入る流儀もあるらしい。茶室の入り口が小さくなっているという。

あれは明らかに聖餐式である。お茶とお菓子=パンとぶどう酒だ。

キリストの契約に入る人は、身をかがめなければならない。

ふんぞり返っている人は、茶室に入れない。

身を低くしなくてもいいと説く教えは、人々に人気がある。

しかし、その最後は滅びである。

救われることを求める人は、まず狭い門をくぐらねばならない。

キリストの救いは、プライドを捨て、素直に身をかがめられる人にしか与えられない。

 

 

2009年11月13日

 

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