改憲論議で浮き彫りになった「一と多」の問題


2004年4月29日(朝日新聞朝刊)に今改憲を主張している国会議員の世界観が紹介されている。



衆院憲法調査会
「八百万(やおよろず)の神の思想というのは大事にしなきゃいけない。家の中にも、どなたも一番恐れをなすおかみさんがいるわけで、そのすべてが神だ。そういうものをこれからの世界にちゃんと示すような、日本の体臭がする憲法を考えなきゃいけない」(02年7月4日、中山正暉氏)


中山氏は、多神教の原理を社会に適用すると、統一が取れなくなり、結局は、力の強い者が弱い者を支配するという「帝国主義的支配」以外選択の道が残されていないということを知らない。

為政者にとっては、北朝鮮のような全体主義は支配しやすくて都合がいいのかもしれないが、国民にとっては悪夢である。

通常「一と多」(the One and Many)と呼ばれる「統一と多様の調和」という哲学における根本的な問題がここで浮上してくる。



「憲法24条で個人の尊厳と両性の本質的平等について規定されているが、これが行き過ぎた個人主義という風潮を生んでいる側面は否定できない。憲法にも、家族のきずなの重要性であるとか家族の再生をサポートするような規定を加える必要がある」(04年4月8日、古屋圭司氏)


家族を大切にするということ自体間違いではない。誰も反論はないだろう。しかし、日本にはかつて「家」が神になった時代があった。夫婦関係よりも、家が優先されたため、嫁が半ば家隷扱いされていた。

戦後の日本の家族制度は、キリスト教の「夫婦中心主義」によって改善されたということも評価しなければ、封建的な家族制度が復活してしまう。

ここでも、「一と多」の問題が浮き彫りになった。改憲論者は、この問題について深く考えて欲しい。そうしないと、新しい憲法は「不可避的に」全体主義になる。

ちなみに、政治はキリスト教と無関係だというクリスチャンは、この発言を見てどう思うだろうか。古屋氏が問い掛けているのは、「家族のきずな」の回復であり、聖書が直接的に扱っている話題である。

法律は不可避的に宗教的であるということをクリスチャンはもう一度見直して欲しい。



参院憲法調査会
「国家、国民、民族にもDNAがある。従って、国家の基本法である憲法はその国のDNAに合ったものでなければならない」(00年2月16日、小山孝雄氏)


民族にDNAがあることに異論はない。日本人は日本人としてのアイデンティティを大切にすべきだ、ということにも異論はない。日本人は日本という国を愛すべきだと思う。しかし、愛国心と国家崇拝とはまったく別の問題である。

どうも最近の事件を見ていると、国は、国家崇拝を求めているとしか思えない。

君が代斉唱、日の丸掲揚の際に起立しなかったというだけで教員に対して処分が下ったことを見ても、国は愛国心を隠れ蓑に、国民を国家への崇拝に駆り立てていると見える。

注意しなければならないのは、19世紀以降の近代国家は、国家を神と見るヘーゲル主義の影響を強烈に受けている。実際、戦前と戦中の日本が国民に国家崇拝を強要したという歴史がある以上、教員がそのシンボルであった君が代と日の丸に対して抵抗したとしても無理はないではないか。

古い亡霊がふたたび騒ぎ出している今、クリスチャンはこの悪魔的傾向にストップをかけるよう祈ろう。



自民党憲法調査会憲法改正プロジェクトチーム
「日本の歴史を振り返ると、聖徳太子の十七条憲法にしても、五箇条の御誓文にしても、日本流の民主主義というものがにじみ出ている。日本の長い伝統や文化、国柄への言及があってしかるべきだ」(04年1月29日、平井卓也氏)


日本流の民主主義とは何か?
本当に十七条憲法や五箇条の御誓文に民主主義があったのだろうか。
いわゆる「和をもって尊しとなす」が民主主義なのだろうか。
厳密な検討と、深い思索がない限り、無制限の平和主義は国を間違った方向に導くことになる。

私の体験だと、日本人にとっての和とは、自己と他者との区別をあいまいにして、強者が弱者を丸め込むための方便として利用されてきたと思うのだがいかがだろうか。

ヨーロッパにおいて科学が発達したのは、科学を行う上での基礎的な思考の枠組みがきちっとしていたからである。哲学者は認識論についてきわめて厳格な思考を積み重ねた。

ヨーロッパにも、ヘーゲル以降、東洋的な思考方法が影響力を持つようになったが、これは科学を死に追いやると危険視されている。

科学を成立させた伝統的な思考方法は、主体と客体の区別をきちんとして、「正」と「反」を排他的に対立させる。科学はこのような厳密な思考法を取らない限り成立しない。

主体と客体の区別をあいまいにし、「正」と「反」を排他的に対立させず、「正」と「反」を折衷して止揚するというような非論理的思考法を採用するならば、科学のみならず文化全般が死んでしまう。

「日本の伝統」を本当に重んじたいならば、このような思想的欠陥を反省する必要がある。反省の上に立たないナルシズム的な伝統主義は日本を破滅に追いやるので注意が必要だ。



「前文は日本語の上手な人に書いてもらいたい。村上春樹とか宮本輝とか。信長時代の楽市楽座の発想はすごい。もともと自信をもった民族だと言うことを書いてほしい。間違った平等、人権が日本を毒している。この自然環境の中で生きていくには強さが必要だ、男は男としての力もいるんだという気持ちをどこかに出してほしい」(同、谷川弥一氏)


「男らしさ、女らしさを大切に」という考え方そのものは間違いではないと思う。

しかし、日本人の場合、このような「らしさ」の主張が個性を奪う傾向があるので注意が必要だ。

「高校生らしさ」って何んだ?

スカートや靴下の長さをcm単位で規制したり、丸刈りを強制したり、こういった無意味な規制を教育と考えている人々の意見が、登校拒否児が何十万人にもなったこれからの時代に通用するはずがない。

ここでも「一と多」の問題が現われている。何を規制し、何を自由にすべきか。その基準はなにか。聖書によらなければ、文化は「無意味な規制」と「放埓」の間を揺れ動く以外にはないのだ。

 

 

2004年4月30日

 

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