悪人が自分の上に圧倒的なパワーを振るう場合なすべきこととは?


「復讐は私がする」と神は言われる。

クリスチャンにとってこの原則は重要である。

自分にとって対抗できない力の強い相手がいる。

武力で戦ったが、敗れて支配下に入った。

そういう場合、非聖書的に考えると「敗れた」ということになる。

しかし、聖書的に考えると「戦いを神にバトンタッチした」という意味である。

人間は、防衛しなければならない。

自分の体は自分で守るべきだ。

人体に免疫のシステムが備わっているように、我々はできるかぎり、ばい菌など外部の敵から自分の体を守るべきだ。

しかし、敵が圧倒的なパワーを持っており、物理的な力では勝てず、相手の支配下に入ることがある。

その場合、もはや自分の義務は終わったと考えるべきだ。

「人事を尽くして天命を待つ」の言葉どおり、我々は、自分の側の義務を終えたのだから、あとは神にゆだねる。

「復讐は私がする」と言われる神は、ご自身の方法で相手を裁いてくださる。

我々の義務は、その相手の権威のもとで相手に尽くすことである。

相手の利益のために働く。

そうすれば、神がそれを逆に相手に対する裁きとして利用してくださる。

「善を持って悪に勝て」とあるとおりである。

「右の頬をぶたれたら、左の頬を向けよ」というみ言葉は、このことを教えている。

イエスがおられたユダヤは、ローマの支配下にあった。もはや自己防衛の段階は過ぎた。

神が自分を相手の手に渡された以上、自分としては支配者のために働くべきである。

もっとも優秀な僕となるように努力すべきだった。

しかし、プライドの高いユダヤ人は、そのような服従を屈辱と考えていた。

抵抗運動、独立運動をするものたちがいた。

イエスの周りに集まった人々の中にもそのような人々がいた。

彼らは、イエスが、そのような独立運動のリーダーとして立つことを期待していた。

ユダの裏切りの原因は、そのようなリーダーとして期待したイエスに対する失望だと言われている。

イエスの教えられた道は、「独立」ではなく、「服従」であった。

それは、栄光のイスラエルを捨てて、屈辱の道を選べ、ということではなかった。

「自分で抵抗する段階は終わった。あとは神の裁きを待て」ということだ。

被支配者が支配者のために積極的に働くときに、神はその奉仕を正義の審判のための道具として用いてくださる。

奉仕は心からしなければならない。

「見せ掛け」ではだめだ。主人のために心からせよ。

それは、神に対するように。

そのような真摯な奉仕は、邪悪な支配者にとって脅威である。

なぜならば、神はそのような真摯な奉仕を「炭火」としてその頭上に積まれるからだ。

我々が主人にたいして真摯な奉仕をすればするほど、その邪悪な主人の頭上には炭火が積まれていく。

我々が目指すものは、最終的に神の御心にかなった善人による支配である。

しかし、その過程は複雑である。善人が一時的に悪人の支配のもとに置かれる場合がある。

それは、神の裁きとして行われる場合がある。つまり、その善人にまだ罪の残滓があって、それを処理するために、神があえて悪人のもとに彼を置く場合がある。

そのような場合、善人は、悪人に対して抵抗すべきではない。

その悪人のために、神に対するように心から奉仕せよ。

それによって、悪人の支配の期間は短縮される。

そして、大逆転が起きる。

善人が支配者の地位に座るためには、善人は服従の訓練を積まねばならない。

服従は必ずしも屈辱ではなく、クリスチャンにとってそれは、神の御手を動かす手段なのである。

 

 

2009年8月16日

 

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