プレ・ミレでは教会を励ますことができない3
> プレミレとディスペンセーション主義が理論化されたのは、最
> 近のことだと聞いていますが、大勢の学者の手で理論が構築さ
> れ、その殆どが熱心な方、悪く言えばセクト的な方なので、著
> 作のパワーに圧倒されて、信じざるを得ませんでした。
ディスペンセーショナリズムは、非常に影響力がありますが、残念ながら、批判に対抗する力がありません。
これは、学説としては致命的であり、批判に対してはきちんと対抗しなければ学説としての価値をほとんど失います。
奥山さんや、その他のプレ・ミレ論者と様々な場で議論しましたが、まともに答えていただけませんでした。このような逃走姿勢は、20世紀はじめにO・T・アリスに対するディスペンセーショナリストの無回答から伝統的にある姿勢で、それゆえに、ディスペンセーショナリズムは、アカデミズムでは現在大きな退潮を経験しつつあります。
ディスペンセーショナリズムの総本山である3大神学校(ダラス、グレース、タルボット)のうち2つが完全に伝統的なディスペンセーショナリズムを捨てました。また、最後に残ったダラス神学校も、ディスペンセーショナリズムの主要な学者2人チャールズ・ライリーと、ウェイン・H・ハウスが学校をやめました。
> ディスペンセーション主義の代表格である、めぐみキリスト教
> 会の山岸登先生などは、福音派からでさえ、過激派とみなされ
> ているようで、だいぶこき下ろされています。ですが、先生の
> 書いた、ディスペンセーション主義は確固とした理論で、プレ
> ミレは当然の帰結であるという、自信にあふれた理論書や注解
> 書を読むと、確かにプレミレが正しいなあと思うので不思議で
> す。
山岸先生は、私の実家に泊まられたこともあって、よく存じております。
先生は、大変伝道に熱心で優れた先生と思います。
ただ、先生のディスペンセーショナリズムについては、問題が多く、下記で批判しておりますので、ご一読をされることをお勧めいたします。
http://www.millnm.net/qanda/dispenr.htm
http://www.millnm.net/qanda/DISPRO.htm
> また、故人ですが、高木慶太先生の本も、聖書の終末に関する
> 予言と、現在の状況を対比して、いかに終末に近づいているか
> を説いており、確かにその通りだなあと思います。問題は、終
> 末が近い、だから、どうすべきだ、という回答を出さずに、著
> 作が未完に終わってしまったことです。
高木先生の本は、学生時代に読みました。
お言葉ですが、残念ながら、その世界情勢予言のほとんどが外れてしまいました。
当時のプレ・ミレの予言本では、ソ連が石油輸出国から輸入国に転換する1985年あたりにイスラエルに攻めこみ、携挙がその前に起こる可能性を示唆していましたが、外れました。
ソ連の同盟国になるといわれたエゼキエル書の国々(イラン、リビア、エチオピア、東欧諸国、etc)も、ソ連崩壊とともにばらばらになりました。
10カ国同盟になるはずのEU諸国の数はそれをはるかに越えてしまいました。
そこから反キリストが出るといわれていましたが、候補者として挙げられていたミッテランもクライスキーも死んでしまいました。
ハル・リンゼイは1989年までに携挙が起こると半ば断言していましたが、見事に外れました(彼は本の印税で、現在、3番目の奥さんと裕福に暮らしています。)
プレ・ミレは、1830年代(日本では江戸時代)から「終わりが近い」と繰り返してきましたが、みな外れてきました。
http://www.brain-jack.com/u_mail/u_20041129.html
1970年から80年代にかけて出版された終末予言本を信じて、人生の選択とキリスト教に対する見解が大きく狂った人々を前にして一度著者である牧師たち(=「奥義の管理人」(1コリント4・1))は公的に謝罪すべきと思います。
そうでなければ、過ちが繰り返され、惑わされる人々が増大し、ノンクリスチャンの前に躓きの石を置くことになるからです。
> プレミレとディスペンセーション主義は、説得力といいますか、
> 押しの強さはあるのですが、じゃあどうすれば良いのかという、
> 回避の方法を示さない点で、どこか問題があると結論づけざる
> を得ません。
プレ・ミレの理論を徹底すれば、「諦めろ」ということになります。
「これから大患難時代がやってくる。反キリストは全世界を統一し、クリスチャンとユダヤ人を迫害する。我々が現在築き上げるキリスト教的文化もすべて破壊される。これは、聖書に書かれている予言であり、神の定めなのだから回避は不可能だ。」
と実質的に言っているのですから。
これは、福音ではありません。人々の気持ちを暗くし、文化的発展への参画という創世記1・18の使命とまっこうから矛盾します。
> では、ポストミレが正しいと結論づけるには、私はまだまだ勉
> 強が足りません。
残念ながら、日本において文献が圧倒的に不足しています。
ですから、私はプレ・ミレのクリスチャンを批判したり、見下すことはしません。
代替物がないので選択のしようがないのですから。
> プレミレとディスペンセーション主義の弱点は、無誤無謬説と
> 逐語解釈に拘束されることです。おかげで、救いの無い終末論
> が生まれてしまいました。しかし、聖書を象徴論的に解釈しす
> ぎると、聖書は道徳書に過ぎないという、リベラルに陥ってし
> まいます。この辺のサジ加減をどうするかが難しく、私はまだ
> まだ修業が足りないようです。
「逐語解釈」は無理があります。
聖書は、象徴表現が多用されており、それを逐語的に解釈することは絶対にできません。
リベラルの象徴論的解釈は、「象徴論」というよりも、「寓話的」解釈であり、そもそも聖書を霊感を受けた無誤無謬の神の言葉と扱いません。
私たちが提示しているのは、「聖書は聖書によって解釈する」という歴史的正統的な解釈原則です。
聖書を、最高権威として扱い、ある個所の解釈を他の聖書個所に基づいて解釈するという方法です。
聖書以上の権威がこの世界には存在しないのですから、これ以外に正しい方法はないと言えます。
象徴表現として解釈するか、それとも、文字通り解釈するかは、個別に見ていくしかないと思います。その個所を逐語的に解釈した場合、他の聖書の教えや個所と著しく矛盾する場合に、それを象徴的に解釈すべきだということになるでしょう。
たとえば、すでに述べたように、エゼキエルの第3神殿を文字通りの神殿と解釈した場合に、すでに聖書が「神殿とはイエス(及びクリスチャン)の体のことである」と述べた個所と矛盾します。
また今後新しい神殿を作った場合、至聖所と聖所の間に垂れ幕をつけるのでしょうか。
もし付けたならば、イエスが死なれたときに、この幕が真っ二つに裂けたことを無効にすることにならないでしょうか。(これは、イエスの贖いによって、人間が罪を拭い去られ、自由に神の臨在の中に入ることができることを象徴しています。)
さらに、エゼキエル書では、「動物による贖いの儀式が復活する」と記されていますが、本当に動物犠牲を捧げるのでしょうか?
そうしたら、パウロが「イエスの十字架の犠牲は、一度限りの犠牲であり、さらなる犠牲は不要である」と述べたことと矛盾しないでしょうか。
また神殿から流れ出る川が紅海に注ぐという預言は、地形上ありえません(一度死海に注がれた水がこんどは400mの高低差の上り坂をのぼり始めるということになる)。
> エゼキエル書は象徴的に解釈すべきという、貴方の見解に従い、
> もう一度、旧約の預言書を、様々な角度から読み返してみたい
> と思います。もっとも、旧約後段の預言書には、あまり興味が
> なかったもので、あまり読み込まずに、プレミレの先生による
> 注解書を鵜呑みにしていました。反省しないといけません。
>
> ヨハネの黙示録も、ディスペンセーション主義者が、終末の根
> 拠とする文献ですが、東方教会では、これは聖典に値しないと
> して、排除したことがあったそうです。福音派の金科玉条であ
> る、聖書66巻の規定も、歴史的には絶対的では無かったとすれ
> ば、プレミレも根底から見直されるかも知れません。
黙示録は使徒的文書として正典の中に入っていると思います。
黙示録が正典らしく扱われなかったとすれば、その難解さにあったと思います。
エゼキエル書をはじめ、黙示録も、そのほとんどは、紀元70年のイスラエルの旧い体制の崩壊に関する預言であり、その前提で読めば非常に明解になります。
黙示録の破局を我々よりも未来のこととして解釈することによって、幾多の矛盾が生じます。
たとえば、13章の「獣」が、我々よりも未来の人物であるならば、どうしてアジアに住む7つの教会の人々にヨハネは「読者よ、悟れ!」と言ったのだろうか。
この獣がヒトラーだとかロスチャイルド、ミッテラン、毛沢東…であるならば、黙示録という手紙の読者であるクリスチャンたちがどうして悟ることができるでしょう?
この獣は、ローマ皇帝ネロとしか解釈できません。
http://www.path.ne.jp/~millnm/no42.html
2005年9月27日
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