世間教2
この世における社会的地位や、学歴などを誇る人々にとって基準は「神」ではなく「世間」なのである。
もちろん「世間」という名の価値体系の暗闇の奥に座っているのは、サタンである。
それゆえ、社会的地位や学歴などによって人を評価し、教会の中に世俗学問をそのまま持ち込む人々は、光が支配すべき場所に闇を持ち込んでいるのである。
これまで教会人は、プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、キルケゴール、フロイト、ユングなど、人間的な教えに対して寛容だった。しかし、これらの思想家の教えを受け入れつつ、なおかつキリストの御国を作ることなどありえない。
ある教会には、図書室の本棚にフォイエルバッハの著作すらある。
残念なことに、明治期に内村鑑三などに影響を受けた高学歴の人々は、同時にこれらの思想をも受け入れた。内村の弟子岩波茂雄が創設した岩波書店から出るキリスト教関係の本はほとんど聖書信仰からはずれたというよりも、むしろ聖書信仰を破壊するようなものばかりである。
世間に働いている霊とは、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」(エペソ2・2) である。
キリストとベリアルの間に何の調和があるだろうか。信者と不信者の間に何の調和があるだろうか。(2コリント6・15)
クリスチャンはノンクリスチャンとはまったく異なる価値体系を作り出して、それに基づいてこの世のすべてのものを評価するしかないのだ。
ノンクリスチャンの基準を採用して物事を評価している限り、その人は世間教徒であり、クリスチャンではない。彼をサタンの支配から完全に解放されている人と見ることはできない。
2004年5月29日
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