法律スレスレを裁いていいのか?


今回のホリエモンの捜査で、「たとえ違法ではなくても、法律の網の目をくぐって行うライブドアの手法に対して検察がノーを言った」とコメントする人々がいる。

もし、これが事実だとすれば、日本は恐ろしい国になったものだ。

法律に違反していないのに逮捕される恐れがあるのだから。

ポルポトとどこが違う?

法治国家とは、法律に厳密に照らして違反がなければ何もできない国家という意味である。

もしそのようなスレスレのやり方がよくないというならば、法律を改定すればよいのである。

「倫理的ではないから。」というだけでもし逮捕できるならば、日本は中国なみの「人智主義」の国に成り下がる。

個人が国の越権行為から自分の身を守るために法律というものは存在するということが、この国の人々は分かっていないようだ。

歴史を見れば分かるように、近代の法律や議会政治の起源は、国の横暴から個人を守る闘争にあった。

王は「王権神授説」のような「法を超越した存在」になりたがった。王のわがままに振り回されていた人々が団結して、「法は王である」と述べ、「王であっても法の下にいる」と述べ、王を絶対君主の座から引き摺り下ろし、議会に主権を持たせた。

これらのコメンテーターは、このような国家権力との戦いの中で近代の法律が生まれてきたことを忘れてしまったのである。

もし国が、「法律スレスレはやはり罰する」と言い出したら、国民は大きな声で「ノー」といわねばならない。

国が道徳を口にし、「道徳的にこれは明らかに罰するべきだ」と言い出したら、国民は「ノー」といわねばならない。

なぜならば、「何が道徳か」なんて、誰も共通した認識がないから。

国民が一致して日本を作っているのは、「法律で白黒つける」という大前提があるからである。基準は「法律だけ」である。道徳で一致しているわけではないのである。「書かれている法律だけで白黒つけてくれる」ということで裁判所に信頼しているからである。

書かれている法律を越えて、なんだかわけのわからない「道徳」を持ち出されて、検察や裁判所の「道徳観」で裁かれたらたまったものではない。

恐怖政治の始まりである。

人々が今回の事件で騒がないのは、「ホリエモンに明らかな粉飾決算があった」からである。明らかな法律違反があったからである。

もしそうじゃなかったら(つまり、法律の文言に照らさずに「道徳的ではないという理由で」さばかれたとしたら)、法治国家としての日本の土台を揺るがす大きな問題になるので、人々は騒ぐだろう。

 

 

2006年1月30日

 

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