4という数字を嫌う人がいる。日本語で4は「死」を想起させるからだという。
欧米では13という数字を嫌う傾向があるという。俗説で13日の金曜日にキリストが磔刑にされたからと。
聖書的に言えば、数字そのものに意味はまったくない。
4や13がつく日や番号が不吉だということもない。
なぜだろうか。
「神が万物をキリストにおいて和解されたから」だ。
その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)
万物がキリストによって神と和解された。
ものそのものにおいて不吉なもの、穢れたもの、我々に害を与えるものは存在しない。
だから、聖書的キリスト教において、「豚を食べてはならない」とか「牛を食べてはならない」、「菜食主義になれ」という教えはまったくない。
すべては聖い。ものそのものにもはやのろわれたものはない。
しかも、我々クリスチャンは、万物に対して王である。
我々よりも強い力で我々を圧倒するような邪悪なもの、不吉なものは存在しない。
だから仏滅に何かしたから失敗するというようなことはない。
占いで今日は○○をするとよくないとあったので、それをしないようにする必要もまったくない。
我々を超越して我々を呪うようなものは何も存在しない。
我々は、王であり、神とその法以外に我々を支配するものは何もないからだ。
サタンですら我々を支配できない。
しかし、信仰に穴が開いていると、そこからつけ込まれることがある。
疑いの気持ちが少しでもあると、そこにサタンは付け入って「不安」や「恐怖」を植え付けられることがある。
不安や恐怖は、聖書において「火矢」と呼ばれている。
心の中に入って内側で燃え盛り、焼き尽くすことがある。
だから、信仰は完璧でなければならない。
信仰によって「非聖書的なもの」をすべてシャットアウトせよ。
理屈はいらない。
聖書的でないものには一顧だにすべきではない。
「聖書ではこうだけど、現実は・・・」などはすでにサタンにやられている人間の思考方法だ。
我々は青酸カリに対してどう反応するだろうか。
「ちょっと舐めて体験してから考えよう」などとするだろうか。
一切触れたり口に入れたりしないだろう。
直前で払い落とすだろう。
同じことが「非聖書的考え」にいえる。
非聖書的考えは、猛毒である。
だから、少しでも我々の思考の中に入れてはならない。
それは検討にすら値しない。
飛んできたら払い落とせ。
問答無用で拒絶せよ。
パウロは「信仰の大盾を取れ」と言った。
「火矢を防ぐことができるから」と。
我々は万物の王であり、我々を支配するようなものはこの世界に存在しない。
ものそのものはことごとく清められて無害であるだけではなく、我々は王であり、それらを完全にコントロールできる立場にある。
だから、ものそのものへの恐れ、特定の数字への恐れ、占い、迷信などを受け入れてはならない。