神は基準以外ではありえない3


私の友人で、「神よ。私にサタンに打ち勝つ権能を与えてください」としきりに祈っている人がいる。

私は、これまで何度も「すでにサタンに打ち勝つ権能は与えられているのですよ。クリスチャンになったということは、王になったことなのですから。」と言っても、同じことを言う。

聖書ははっきりと「悪魔に立ち向かえ。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去る」と言っている。


ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(ヤコブ4・7)

我々は、悪魔を従える権能を持っているのである。

どうして、それなのに「与えてください」と祈るのだろうか。

自分の立場を誤解しているのである。

どうして誤解しているかといえば、現状を見ているからである。

現状、現実、周りの状況を、信仰よりも上位に置いているからである。

これも、聖書を基準として見てない誤謬である。

人々がポスト・ミレを信じられないのは、「現実を見てください」という惑わしからだ。

クリスチャンは、現実を見て判断するのではなく、約束を見て判断するのである。

我々にとって、科学的な判断は時に誘惑になるから注意が必要だ。

「科学はこう言っています」とか「統計上、こうなるでしょう」とかいう判断は、間違いを生む。

信仰よりも科学を優先できない。

科学を優先するときに、悪魔は我々の心に入り込む。そして、我々の心を不安の中に陥れる。

心をかく乱させ、罪を犯させる。

こうして我々の生活をめちゃくちゃにしようとする。

御言葉にはっきりと約束されていることについては、我々は科学を無視すべきだ。

これが聖書的認識論だ。そして、ここに人類の希望がある。

死が終わりではなく、その先に復活がある。死は命に飲まれた。

科学は、死を終わりという。しかし、信仰は、死は終わりではないという。

御言葉の約束については頑固になれ。誰が何を言おうと、御言葉だけを信じるべきだ。

 

 

2008年2月12日

 

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