あざける人間の行く末


(1)
社保庁の元次官の暗殺。

結局、自浄能力がないと、だれかが清めるということでしょう。

日本は役人(とくにキャリア)が裁かれないシステムだが、神はそういう体制を呪われる。

なぜならば、神は契約の中で人間に「裁け」と命令されたからです。

ある人は「クリスチャンは裁いてはならないのではないですか?」というが、まったく聖書が判っていない。

神は人間に統治を命令された。つまり、人間は神の副官なのだ。

アダムが失敗したので、今の正統な副官はキリストである。

そして、キリストの権威のもとにそれぞれの組織に代表者が立てられている。

どの組織のどの権威であっても、キリストの権威の下にある。

そして、キリストの法のもとにある。

どの組織のどの権威であっても、法に違反すれば、裁きがある。

どんなに逃げても裁きからまぬかれられない。

金は使うが責任は取らないというこの国の官僚制は、いずれ大きな裁きにあう。

裁かれないためには、悔い改めしかない。

「人生なめたらあかん」のです。

組織を救いたいなら、厳正な処分をすべきだ。

社保庁の場合、国民の間には、「なぜこれだけの詐欺をやった組織なのに、責任者が裁かれないんだ?」という鬱屈した気持ちがあった。

しかも、厚労大臣も「時効だから」と手をつけず。

これでは、「やり得なのか?」という義憤が起きる。これが、政府批判になっていた。

うがった見方かもしれないが、自民党政権を救うためにガス抜きで刺客が送られたのかもしれない。

戦後一代で巨大な企業や店舗に育てたが、人を人とも思わない貪欲な人間は最後に破綻し、すべてを失う。

我々は、そういった例をいくつも見てきた。

良心的な経営者や指導者の最期と、これらの鬼畜の最期を見よ。

みんなが見て、「何かおかしい」と感じる人間や組織は、結果としておかしな結末を迎える。

(2)


幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。 ・・・

悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。

それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。

まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(詩篇1・1、4-6)

よく、掲示板などで、「あざける」人間がいるが、一番愚かだと思う。

私をあざけりの対象としているページがあるが、愚か者の集団である。

「あざける」ことは、破滅に通じることを知らないからだ。

しかも、神の言葉、牧師、宣教師、伝道者をあざけることがどれだけの裁きと刑罰を招くか知らない。

ダビデは、ここで、「あざけり」を罪の最終地点に置いている。

つまり、罪人が罪を重ねると最後にあざけるようになる。

罪を犯しても裁かれないから傲慢になるのだ。

普通、神の祝福を受けている人は、第一段階や第二段階で懲らしめにあう。

つまり、「悪者のはかりごとに歩む」のが第一段階、「罪人の道に立つ」のが第二段階。

我々がもし祝福されているならば、神は我々が悪の計略に参加した段階でストップをかけられるだろう。

しかし、もし第二段階、実際に罪を犯す段階にまで進むことを許されたならば、その犯した罪を裁くということによって神は我々にストップをかけられる。

しかし、神の選びによって、第三段階まで進むことを許される人々がいる。

彼らは、神をあざけり、義の道をあざけり、聖書をあざけり、牧師をあざけり、伝道者をあざける。

ここまできたら残されたものは裁きだ。

彼らは「風が吹き飛ばすもみがらのように」飛ばされる。

悪者がいかに軽いかお分かりだろうか。

神は、これら「神や人間、人生をなめている人間ども」を、風で吹き飛ばされる。

人を馬鹿にしているような人間は一息で飛ばされる。

以前、社保庁の人間がテレビで映っていたが実に傲慢だと思った。

不正について詰問する記者に向かって、「なんてことないですよ。ちょろいもんです。」みたいな態度を平気で取っていた。

末期的症状だ。

社保庁だけではなく、最近の厚労省は、悪魔的ですらあると思う。

刺青を取る手術のレーザーをわざとやけどができる温度にまで上げて、治療を伸ばした悪徳医師を裁かない。役人との間に癒着があるのではないかとの報道があった。

明らかに国民を馬鹿にしていると思った。

罪が罪を膨らませ、ついにあざける段階にまでいたったケースだ。

おそらく、これから厚労省に対する裁きが来るだろう。

悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。

あざける人間の特徴は、義人の集まりを回避するというところにある。

正しさを求める素直な人間を見ると、揶揄したり、攻撃したくなる。

こういった揶揄や攻撃は、自分の心のやましさの反映だ。

自分に何もやましさがなければ、素直な人々の集まりに好んで加わるだろう。

隠れた罪があれば、義人と一緒にいることが苦痛になる。

まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる

人を馬鹿にしたり、揶揄したり、まじめに何かに取り組んでいる人間にちゃちゃを入れたりする人間の最後は、滅びだ。

あざける人間につける薬はない。

神はこの地上から傲慢な人間を消し去られる。

 

 

2008年11月19日

 

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