御言葉は剣と言われる。剣は聖書において統治の象徴である。
それは、彼(為政者)があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。(ローマ13・4)
御言葉は、統治の道具なのである。
剣は、使い方によって自分をも傷つける恐れがある。
だから、御言葉を適用する場合には十分な配慮が必要だ。
御言葉を軽視する人はそれによって傷を負う。
ある人が自分に対して御言葉によって警告した場合には、十分に注意しなければならない。
御言葉を普通の人間の言葉と同一視してはならない。
それは、あなたに必ずなんらかの結果をもたらす。
クリスチャンの場合、御言葉による効果は増幅されるから、服従した場合に祝福が大きい反面、逆らった場合のろいも大きくなる。
あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。(レビ26・8)
わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。(レビ26・17)
自分に何らかの不利益がある場合、さかのぼって考えると御言葉に対して何らかの不従順があったことが分かる。
人間の知恵を優先する人には、必ず何らかの報いが来る。
人生は厳粛であり、我々の行動すべてについて神の評価がある。悔い改めるならば裁きを逃れるが、御言葉を無視したり、それに反逆することは、必ず何らかの刑罰となって自分を苦しめる。
国家統治であれ、会社の経営であれ、家庭の運営であれ、統治の絶対的手段である御言葉から逃れることは絶対にできない。
服従による祝福か、反逆によるのろいか、いずれかしか選択できない。無視することは不可能である。