改革主義の中にある変な人間崇拝
改革派については知らないが、いわゆるカルヴァン派の中の傾向として「人間崇拝」があると思う。
やたらに「○○先生はすごい」という話が出てくる。
チャールズ・ホッジの注解書を読まないとローマ書は理解できないとか。
今の福音派の牧師や伝道師への侮辱的態度もどうかと思うが、こういった人間崇拝もどうかと思う。
改革主義の祖カルヴァンは人間のことを何と言ったか。
「パウロは人間の間では聖人かもしれないが、神の前には一匹の獣に過ぎない」
神を基準に人間を見るというカルヴァンの態度はどうも現代の改革主義者に遺伝しなかったようだ。
「すごい」と言われている牧師や神学校の先生について、私はどうもそう思えないのだ。
学生時代からその先生を知っているし。
学識とか学的能力とか性格とかいろいろ知っている。
カルヴァン主義の教派全体に、このような、実にカルヴァン主義者にあるまじき歪んだ伝統のようなものがある。
事情はアメリカでも同様で、アメリカの場合は、B・B・ウォーフィールドがあがめられる。
本当にそうなのか?
ヴァン・ティルのほうが画期的な業績を残した。比較にならない。
そして、誰が何を言おうと、ヴァン・ティルを土台にキリスト教を次元の異なるレベルにまで引き上げたのはR・J・ラッシュドゥーニーである。
まさに、この時代における神の賜物である。
この2人と比べればウォーフィールドの業績はかすんでしまう。
しかし、このように2人を認める私だが、しかし、それは神が彼らに必要なものを与えなければ何もできなかっただろうとしか考えていない。
すべては神の賜物だと思っている。
神が人を選んで、仕事をさせてくださる。
だから、我々の間では、誰も崇拝されてはならないと思う。
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。(マタイ23・8)
2008年7月5日
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