御言葉を愚弄する傲慢な牧師は講壇から語る資格はない


聖書を教える立場にある人間が一番やってはならないのは、聖書を自己流に解釈して、それを伝えることである。

なぜならば、彼らは「神の奥義の管理者」だから。

管理者とは、たとえば、マンションの管理人は、勝手にマンションを建て増ししたり、内装を変えてはならない。オーナーの指示を仰ぐ必要がある。なぜならば、管理者はオーナーの下で管理する立場にあるから。

だから、管理者である教職者は、絶対に聖書を超えてはならないし、また聖書を下回ってもならない。聖書が強調するとおりに強調し、聖書が強調しないように強調しない、という態度が必須だ。

しかし、山谷さんの解釈を見ると、自分の思いが先行していて、神の啓示などどうでもよくなっている。その証拠が、「自分の説を他の個所と調和できない」というところにある。

律法が悪いものである、という彼の説は、

「…律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7・12)

という個所と絶対に調和できない。

山谷氏は、神の恐ろしさを知らない。

神の言葉を弄ぶ罪の恐ろしさ、そして、その刑罰がどれほどのものであるかを知らない。

我々は、人間の言葉を扱っているのではないのだ。

神の言葉を自分で捻じ曲げることがどれほど自分に呪いを招くかを知らない。

教職者は、一つや二つの個所から自分で考えた見解を無責任に垂れ流すべきではない。

聖書は総合的に見る必要があり、別の個所で、自分が言っていることと矛盾することがでてきたら、それを調和させられるかどうか判断し、もし調和できないならば、捨てなければならない。

たとえば、ある小さな島の猫はみな黒猫だったとする。島民は「猫は黒いものだ」と信じている。

しかし、ある日、外から船がやってきて、白い猫を運んできた。

島民はびっくりした。猫には黒いものだけではないのだ、と分かった。

これと同じように、教職者は、聖書の中において自説と矛盾する文句にぶつかったら、自説を捨てて、聖書の説を採用すべきなのだ。

だから、「律法は悪いものだ」という意見をガラテヤ書から「自己流の読み方をして」持っていたとしても、ローマ7・12を読み、「パウロは律法を良い物と述べている」という事実を理解したら、すぐさまその自分の意見が、自己流の誤謬であったことを悟って、捨てなければならない。

このような「御言葉に対する」素直さは、教職者として最低レベルの資質であり、この資質を備えていない人間は教職者にはなってはならない。

御言葉を愚弄する傲慢な牧師は講壇から語る資格はない。

 

 

2004年6月12日

 

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