霊に関する話
(1)
昨晩、TVで9歳の女子の殺害犯を透視するという番組があった。
奈良の女子殺害といい、この事件といい、性的サディズム犯による殺人事件が多くなっている。
これは明らかに霊の働きであると思ったので、番組終了後、小児性愛の霊や性的サディズムの霊を日本から名指しで追い出そうとしたところ、強い葛藤が起こった。霊の世界の大きな葛藤である。
実は、こちらに不信仰があった。
祈る前に少しの信仰のほころびがあった。ほんの小さな不信仰の穴でもあると、悪霊はそれを口実に使って攻撃してくる。
追い出しの祈りを始めた瞬間に自分の心に不信仰があるのに気付いて「しまった!」と思った。しかし、はじめてしまったから止められない。
いつもであれば、「○○の霊よ、イエス・キリストの御名によっておまえを縛る。そして、底知れぬところに投げ込み、そこを閉じる。二度と出てくるな」と一喝して終わるのだが、今回はこちらに不信仰の穴があったので、力が完全に出ない。
だから、しばらく向こうの側からの霊的圧迫とこちらの側からの攻撃と押しくらまんじゅうが続いた。
「このまま終われば、霊に憑依されるか影響が残る」と思ったので、「主イエスを完全に信じる!私はイエス・キリストにあって王である。だから、おまえたちに命じる!」と必死に信仰を働かせた。
追い出しは、完璧な信仰を働かせないと、追い出した霊にやられることがある。
霊が残っていて、こちらに取り付くことがあるのだ。(*)
結局、こちらが押し切った形になったが冷や汗ものだった。
中途半端な信仰では悪霊と対決できない。
(*)
以前、脱力の霊を追い出した後で、同じ霊に苦しめられた。何もする気が起きない。体がだるくて起き上がれない。ある友人に頼んで追い出してもらったら、今度はその友人に入った。私は出ていったので元気になったが、その友人はしばらく同じ症状に苦しんだ。
信仰にほころびがあると、悪霊はこちらを小ばかにする。こちらから強い力は出ない。
韓国のクリスチャンがよく言うが、韓国がクリスチャンの国になったので、そこにいた悪霊が日本にやってきたらしい。
追い出した後で、「底知れぬところに行け」と場所を指定しないと、悪霊は彷徨って居心地のいい場所を探してそこに住み着くのである。
「汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(ルカ11・24-26)
(2)
風呂に入らないと臭いがする。歯磨きをしないと口臭がする。
神の創造の世界を見れば、怠惰が罪であることは明らかだ。仮に風呂に入らないで、汚れがついたままの状態が良い香を発するように創造されていれば、どうだろうか。人々は平気で何週間も風呂に入らないだろう。
しかし、神はこの世界の秩序をそのように造られなかった。怠惰にすれば、悪臭が出てくるように腐敗バクテリアなどを創造されたのである。
霊的な世界も同じである。
怠惰にしていて、祈りが滞っていると、問題が噴出する。
一度祈ったから大丈夫、などと考えてはならない。
毎日、頻繁に祈っていないと、霊的垢がたまって霊的腐臭を発するようになる。
神の世界では怠惰は許されない。
(3)
近年のキリスト教が旧約聖書と新約聖書の違いを「霊と肉」の違いと分けてから、物理的な奇蹟が否定されてきた。
しかし、我々が住むこの新約の時代においても、物理的な奇蹟は起こる。
自然法則は「神のしもべ」である。神の命令によってしばらくそれを差し止めることがある。
旧約聖書も新約聖書も、人間の瞬間移動や空中移動を記している。
エノクやエリヤは生きたまま天に昇った。エゼキエルは神の栄光によって空中を移動した。ピリポは瞬間移動した。祈りによって太陽が一日沈まなかったと記されている。
聖書は奇蹟の物語に満ちており、それゆえ、今日の教会の「常識重視」の態度は決定的な間違いである。
「常識で考えてみろ、そんなこと起こるはずがないじゃないですか!」というといかにも正しいように見える。
しかし、信仰の世界に常識を持ち込むことは間違いである。それは、クリスチャンにとって非常に大きな誘惑になる。
サタンは常識を多用することをご存知だろうか。
なぜならば、サタンが近代においてやろうとしてきたことは、「この世界は神を除外した閉じられた世界である」と人々に信じさせることだから。
科学はそのために大きな役割を果たした。
「神のしもべ」でしかない科学法則を、神の上に置いてきた。
科学は人々に「この法則はいついかなる場合でも100%働きます。」と伝えてきた。
そもそも、科学とは、「通常、この法則は作用する」としか言えないのだ。(なぜならば、人間の認識能力には限界があるから。100億光年先の天体の地下数千キロで今何が起こっているかなど誰も知らない。)
しかし、科学を誤解した人々は、「通常」を「常に」と変えてしまった。
その結果、処女降誕は否定され、聖書に記された様々な奇蹟を後代の人々の創作と考えられるようになったのである。
間違った科学観によって、人々は、自然法則以外で物事が起こることはまったくないと信じこまされてきた。
近代において、サタンはこの世界から神を追い出し、人間だけの世界を造らせようとしたのである。
サタンは、近代人に宗教を否定させようとしてきた(サタンの別働隊はしきりに宗教(聖書的キリスト教以外の宗教)を信じ込ませようとしているのだが)。
この世界では、自然法則を越えたことは起こらず、神の力はまったく作用していないと信じさせようとしてきた。
それが教会の中にまで浸透した。だから、今のクリスチャンは奇蹟を否定するのだ。リベラル派だけではなく、福音派のクリスチャンすらも奇蹟を否定する傾向が強い。
私は、友人の家で、神の御名の重要性について対話した。その当時、自分のうちでそれほど御名について考えていなかった。自分が影響を受けた人々の中にそれを強調する人はいないだろうと考えていたので、彼の話を流して聞いていた。
帰宅して一人でボンヤリしていると、地震も何もないのに、棚の上に積んでいた雑誌の一つが目の前にポトリと落ちてきた。
それはラッシュドゥーニーが出しているChalcedon Reportで、開いて見ると、「神の御名」という題の彼の論文が載っているではないか。
それを読んで、「ああ、御名の重要性はラッシュドゥーニーも言っているのか!」と思った。
私は、こういった物理的現象は奇蹟だと考える。
神の導きにある人ならこのような体験を何度かしているだろう。
2004年12月21日
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