モーセ律法を悪者扱いするな!3 (訂正版)
>かくして私たちも祭司の体系とされ(原語;1ペテロ2:9)、祭司の
>特権である犠牲の動物を食べることができ、この肉に触れる者
>はみな聖とされます(レビ6:26,27;ヨハネ6:53)。これはもちろん
>ほふられた神の子羊キリストです(ヨハネ1:29;黙示録5:6)。こう
>してキリストを食べる時、私たちはいのちを得、このいのちが内側
>から生き出てくださる時、神の新しい律法を自動的に全うしている
>のです。祭司制度と律法の変更。すなわち善悪の木の路線からい
>のちの木の路線への回復。ここに私たちが勝利する鍵があります。
>ハレルヤ!
次のような図式が描かれています。
善悪の木の路線→レビ系祭司制度→モーセ律法→救済失敗
いのちの木の路線→メルキゼデク系祭司制度→キリストのいのちの力→救済成功
この図式において問題なのは、すでに述べたとおり、@モーセ律法をいのちの木の路線に入れていないことと、Aモーセ律法の教導的効用(第3効用)までも捨ててしまったことにあります。
@モーセ律法は、イスラエルを幸せにするために与えられた「いのちの法」でした。
これは、すでに述べたとおりなので説明を省きます。
Aモーセ律法には、1、人を罪に定める機能 2、人をキリストに導く機能 3、人に正しく生きるための指標を与える機能 があります。
律法主義者が考えているような「人を義とする機能」などありません。
動物が担っていたのは、あくまでも「本当の犠牲であるキリストを指し示す働き」だけです。これは、2の機能になります。
神はイスラエルの民が罪を犯した場合、動物の犠牲を捧げるよう命令されました。民はそれに従っていけにえを捧げていましたが、しかし、それによって良心の呵責が収まるわけでもないし、また実際に動物の血では人間の罪を取り除くことなどできなかったのです。
では、神は、なぜ動物を犠牲として捧げよと言われたのかといえば、それは、「完全に罪を取り除く犠牲が将来現れる」ということを示すためでした。
動物の犠牲制度はあくまでも、キリストという本当の犠牲を示す象徴、レプリカ、模型だったのです。
しかし、ユダヤ人の中には間違った理解をしていた人々がいて、「動物犠牲で完全になれる」と勘違いしていました。
ヘブル書をはじめ新約聖書が否定しているのは、律法に関するこのような間違った考えなのです。
これらは、動物の犠牲では、人間の良心を清め、命を与えることはできない、と述べていますが、モーセ律法の「教え導く力」までも否定していません。
モーセ律法の「羅針盤的機能」に関して、もしヘブル書が否定しているならば、他の聖書の個所と矛盾します。
イエス・キリストが言われたとおり、「律法の一点一画たりとも地に落ちることはない」のです。
律法は不変の言葉であり、それは永遠に有効です。
率直に言えば、動物犠牲制度が廃棄されたと言いますが、それは本当の意味において廃棄されていません。
なぜならば、それはキリストの犠牲という形で成就しているからです。
律法の一点一画たりとも地に落ちてはいないのです。
犠牲の機能としても、教導的機能としても、失われたものは何もない。
だから、我々は、その戒めの小さなものの一つでも破るように教えてはならないのです。
「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5・19)
2005年10月3日
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