偽クリスチャンのしるし
パウロが第1コリント13章の「愛は礼儀に反せず」という意味は重要である。
ここ数ヶ月にわたって、こちらにメールをよこした人で、私の名前の前にいつも小文字の「t」を付ける人がいた。
つまり、「t富井さん」と。
最初は打ち間違いかな、と思ったのだが、何度も続くので、故意と考えている。
小さなことだが、小さなことで無頓着な人は、大きなことも無頓着なのだ。
クリスチャンに対して失礼なことをする人間は、その実、イエス・キリストに対して失礼なことをするのである。
マタイ25章に、「この小さなものにしたのは、私にしたのである」とあるように、クリスチャンはキリストの代表だ。だから、クリスチャンに対する態度を見れば、その人間がキリストに対してどのような態度をとっているのかがわかる。
クリスチャンを平気で利用する「クリスチャン」にたくさん会ってきた。
クリスチャンや牧師や伝道師に対して無礼なことをする人々にもたくさん会ってきた。
こういった人々は、その行いにおいて、実は「偽クリスチャン」であることを証明しているのである。
なぜ日本の教会は祈りが少ないのか。
なぜ日本の教会は献金が少ないのか。
本物のクリスチャンがいないからだ。
このサイトを喜んで見ている人の中に偽クリスチャンはいないだろう。
「喜んで」という心があるならば、その人は、「聖書と親和的な関係にある」のだ。
偽クリスチャンは、聖書と親和的ではない。聖書を読んでも理解できないし、また、自分勝手な解釈を平気でして、しかも、それについて批判されるとムキになって同じ言葉を繰り返す。
自分が救いの中にある本当のクリスチャンか、それとも地獄に定められた偽クリスチャンか判別するための試金石は、「主よ。主よ。」と礼拝で言うことではない。
同朋のクリスチャンに対して愛と礼儀を尽くして接しているかということだ。
2005年6月6日
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