教会に関して実績主義は間違いである
「実績を見せろ」
仕事の世界では、実績は武器である。人々は、その人や会社を評価する際に実績を重んじる。
これは正しいことである。物事を評価する場合に、証拠を求めるのは当然である。
しかし、このような認識の方法を聖書や神学に適用してはならない。
クリスチャンや牧師や伝道者の働きを評価する場合に、実績を基準にしてはならない。
よく、こう尋ねられることがある。
「あなたの教会(またはミニストリ)には、何人くらい参加していますか。」
こう尋ねる人は、参加者の数で教えや働きの正しさを評価しようとしているのである。
1000人参加者がいたら正しい働きで、10人だったら間違った働きなのだろうか。
1000人の教会は正しい教会で、10人の教会は間違った教会なのだろうか。
1000人の信者がいる教えは正しい教えで、10人の信者しかいない教えは間違っているのだろうか。
判断基準が狂っているのである。
これは人間的な判断基準である。
神の御言葉に関する働きをはかる基準は一つしかない。
「それは聖書的か?」
もし人数ではかるのが正しいとしたら、バアルの預言者とエリアの戦いにおいて、500人のバアルの預言者のほうが正しかったということになるのだ。
ことキリスト教のミニストリに関する限り、実績など関係ない。
純粋に聖書だけを基準として判断・評価すべきである。
たとえ信徒が10人しかいない働きであっても、聖書に適っていることをしているならば、その働きは大きな影響力を持っている。
なぜならば、真の力は神にあるから。
神はその働きを用いて、巨大なことをしてくださる。
教会成長学は、このような信仰を破壊してきた。
牧師は、信徒や集会出席者をかき集めるために心を騒がせた。
人数によって牧師の器量がはかられ、働きが評価された。
これによって教会に世俗がどんどん侵入した。
教会に人を集めるために、信仰の内容を薄め、教理を説かず、面白い例話で説教が占められるようになった。
教会はガタガタになった。
フラー神学校の新福音主義は、アメリカや日本の教会を破壊することに成功した。
教会の再建は、ただひたすらに「聖書に忠実か」という基準を採用することにかかっている。
牧師は、世俗や肉から離れ、霊的な考え方を取り戻すべきだ。
2007年7月5日
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