伊雑宮の復活が意味するところ4
日本とはどのような国なのか。これは長い間なぞであった。
しかし、神は今、我々にそれを教えようとしておられる。
日本は、もともとユダヤ系キリスト教の国であった。ユダヤ系キリスト教国は、日本以外に存在しない。
なぜならば、紀元70年以降、福音は異邦人に伝わったからだ。
今我々がキリスト教と呼んでいる「ステンドグラスの教会」をシンボルにしたキリスト教とは、実は、本来のキリスト教とは異質の欧米化されたキリスト教、異邦人化されたキリスト教である。
このキリスト教は、異邦人の手によって発展したために大きな欠陥がある。その欠陥とは、「自然崇拝」である。
聖書が「無からの創造」を唱えるのに対して、欧米のキリスト教は、「創造の前に自然があった」と考える。
だから、聖書の「創造の法=聖書法」よりも「自然法」のほうが尊重される。
欧米のキリスト教の歴史とは、「聖書法」と「自然法」の強調の度合いの変動の歴史である。
ローマ・カトリックであっても、初期のころは、それほど自然法強調はひどくなかった。
ひどくなったのは、トマス・アキナスが、キリスト教を「ギリシア思想」によって再編してからだ。
それ以降、ローマ・カトリックは堕落する。そして、宗教改革に至る。
宗教改革において、改革者たちは、「聖書に帰れ」と訴えた。
カルヴァンにおいて体系化された宗教改革神学の基本は、「聖書法」の強調である。
それでも、再建主義と比較すれば、まだまだ足りなかった。
自然法、自然啓示、自然理性に対する信頼は、デカルト及びカントにおいて復活した。
ここにおいて、西欧は、「世俗化への土台」が形成され、この土台に基づいて次第に聖書法の軽視が加速していった。
今の時代は、それが頂点に達した時代である。
同時に、神は、ヴァン・ティル及び再建主義を通じて、聖書法を回復され、「聖書法は万物に対する最高権威である」との徹底した聖書法信仰が確立された。
つまり、現代とは、麦と毒麦がはっきり分かれた時代なのだ。
それまであいまいであったものが、はっきりと識別できるようになった。
さあ、どちらにつくか、それによって、その人が神の陣営に属する人か、それとも悪魔の陣営に属する人かが分かる。
聖書啓示、聖書法、聖書の教えを、自然啓示、自然法、科学よりも上位におくか、それとも、その逆か。
ユダヤ人は、旧約時代、様々な裁きと訓練を経験する中で、聖書法を何よりも尊重することを学んだ。
同時に、紀元70年前には、聖書法を捨てて、武力中心、人間理性中心のユダヤ人もはっきりとその姿を表すようになった。
今の時代は、紀元70年の裁きと平行した時代だ。
つまり、紀元70年が、ユダヤ人の時代の終末であり、今の時代は、異邦人の時代の終末である。
神は、アブラハムからキリストまで二千年間ユダヤ人に恵みを賜り、ユダヤ人を救われた。
彼らは、恵みを拒んでついに反逆は頂点に達し、紀元70年に、大淫婦として裁かれた。
キリストから現代まで二千年間、神は異邦人に恵みを賜り、福音を与えてこられた。
異邦人は、恵みを拒んでついに反逆は頂点に達しようとしている。もしかして紀元2070年に「異邦人の時代の終末」が訪れるのかもしれない。
神の御計画は人間にとって不明なので、年代を決定するのはやめよう。
しかし、ユダヤ人の時代2000年、異邦人の時代2000年で平等という図式は適切ではないかと思う。
聖書によれば、最終的に異邦人の時代の終わりに、ユダヤ人が回復するので(ローマ11章)、今後ユダヤ人がクリスチャンになるだろう。
いや、実際に全世界でユダヤ人の回復は起こりつつある。
ユダヤ人が回復するとどうなるだろうか。
では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。
そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。
もし彼らの捨てられることが<世界の>和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から<生き返ること>でなくて何でしょう。(ローマ11・15)
2010年9月3日
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