衣食があればそれで満足すべきです


大学卒業したときに、味わったことは、「せっかく受験戦争に勝って就職しても、奴隷制度が待っているのか」という絶望であった。

日本の一流企業は、夏休みが5日しかない。しかも、その5日間に、毎日会社に連絡を入れなければならない。旅行先でも。今はどうか知らないが、私のころはそのような慣習があった。

これは私にとって大きな失望だった。私の父親は教員だったから、夏休みがあり、長い期間休むことができた。

企業社会もそれほど自由ではないだろうが、もっと休みがあるだろうと思っていたが、想像よりもはるかに過酷だった。

このような感情を知人に吐露すると、「甘いよ」と言われた。世の中は厳しいと。

「こんな奴隷状態が一生続くのか」と考えると陰鬱になった。

私の場合は、勉強がしたいという思いが強かったのでさらに過酷に思えた。

欧米では、労働運動によって、一ヶ月の休みが与えられる。しかし日本では、「休まない」ということが「やる気」を見せる根拠の一つとなっていた。

有給をすべて使う人間は、「やる気のないやつ」と見られて昇進にひびく。

法的には権利があっても、慣習として休みをフルに取る人に対して冷たい視線と暗黙の圧力が存在する。

このような休みのない社会は自殺社会である。

亀井大臣が経団連に対して「今の尊属殺人の横行する社会を作ったのは、企業が個人を奴隷としてこき使ったからだ」という趣旨のことを言ったが、あたっていると思う。

社会がこのように個人を奴隷として扱ったせいで、受験勉強に意味がなくなってしまった。

「勉強して大人になっても、奴隷となるのだったら意味はない」と考え、引きこもりになるのも無理はない。

社会が個人を奴隷として扱うことが回りまわって自分の首を絞めている。

実際、私の体験では、一流企業に勤めて奴隷としてこき使われている人よりも、自営で自分の時間を自由に使っている人のほうが幸せに見える。

自営には倒産のリスクが伴うから一概には言えないが、しかし、収入は少ないが自由な時間がある自営業者のほうが幸福度は高いように見える。

こだわりは損だと思う。

見栄とか、体裁にこだわるのは、一つの奴隷の形態だ。

住む家とか地域とかにこだわるのは宗教であり、それは、偶像だ。

知人で東京の一等地に住んでいる人がいて、泊まるホテルの名前とか、会社の所在地によって、人を評価する。

渋谷の会社ならOK。板橋ならNO。

ホテルオークラならOK。ビジネスホテルならNO。

ベンツならOK。国産ならNO。とか。

そういうブランド意識が強い。

こういう人は、世間体という名の奴隷であって、付き合って巻き込まれると自分の感覚もおかしくなる。

いったんこのような宗教の体系の中に入ると、抜け出るのが難しくなる。


すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2・16)

クリスチャンは、このような虚栄に走ってはならない。

「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」は、悪魔から出たものだ。

だから、これらにとらわれている人は、悪魔の奴隷である。

住む場所や建物にこだわってそこから離れることができないと、自分の能力を超えた仕事量をこなさなければならなくなり、体を壊す。

元も子もなくなる。

意味がないじゃないか。

サタンは、こういうこだわりによって人を縛り、無益な人生を送らせようとしている。

分不相応な生活を維持するために無駄な資源を費やさせて、疲弊させて、最後に滅ぼそうとしている。

もし受験勉強がそのような虚栄のために存在するならば、受験の努力が社会人になって裏切られても当然といえる。

間違った宗教に踊らされただけだから。

東大を頂点とする学歴社会は、一つの偶像宗教であり、実態は奴隷制度である。

我々クリスチャンはこのような偽りの宗教にはまってはならないと思う。

東大に入ることが悪いと言っているのではない。

東大に入り、一流企業に入り、名誉ある地位を占めること自体に問題はない。

問題は、虚栄の体系である。

「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」に基づいて自分の人生を設計するなら、それは、むなしいものであり、サタンによってあらぬ方向に導かれて滅ぼされてしまうということだ。

クリスチャンにとって基本原則は次のとおり。

衣食があれば、それで満足すべきです。(1テモテ6・8)

それ以上の欲望は、奴隷への一里塚だ。

だまされてはならない。

 

 

20010年1月3日

 

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