人間の知恵を優先するな


よく科学的知識を持ち出して聖書の上にもってくる「クリスチャン」がいる。

大学の神学部はほとんどすべてこの立場に立つ。

聖書よりも高い権威は存在しないのだから、いかに科学的に確固とした理論であっても、聖書を否定するような考えをもつことはクリスチャンとして自殺行為だ。

聖書は神の言葉であるから、自己証明的だ。聖書は聖書によって解釈しなければならない。

聖書の世界は自己完結しており、他の証明を必要としない。

例えば、我々がエリコの城壁が自然崩壊したことを信じるためには、考古学的な証拠は必要ない。

聖書が「イスラエルの人々がエリコの城壁の周りを7回まわると崩れた」と述べているならば、「わかりました。そのとおり信じます。」と言わねばならない。

マリアは、自分が処女であるにもかかわらず、「あなたは子供を産む」といった御使いの言葉を「そのとおりになりますように」と認めた。

「えっ、ちょっと待ってくださいよ。科学的知識によれば、処女は子供を産めるわけがありません。」などというのは、信仰者ではない。

彼または彼女は、自分の理性を神の理性よりも上位に置く者だ。

アダムはこの失敗をした。神の言葉をそのまま受け取らず自分の頭で考えたものを選択した。

異端者の特徴は、このような「自律的理性」を信じるところにある。

御言葉よりも自分の考えを優先する。

だから、今の大学の神学部は異端なのだ。

「エリコの城壁が自壊するなどありえない。これは後世の教会人の加筆だろう」と言う。

我々を批判する「自然法主義者」も同じだ。

彼らは聖書の法よりも、人間の理性が作り出した法を優先する。

だから、彼らも異端なのだ。

正統的な信仰は聖書を御言葉として、最高権威として常に敬ってきた。

近年これを「原理主義」なる言葉で批判する人々が多いが、正統的なキリスト教信仰は、常にそのいわゆる原理主義であった。

考えて欲しい。

もし神が神であるならば、神を越える見解が正しいわけがない。

この世界が無から創造されたのであれば、神や神の意見を裁く基準が存在するわけがない。

聖書の御言葉の一部でも疑う人間は、その時点で異端と化した。

彼は神よりも自分を高位に置いた。

彼は神になった。

彼は新しい宗教を作り出した。

大学の神学部において学ぶ教えとは、このような新興宗教の教えである。

カントが、「世界の中において人間にとって意味のないものを切り捨てよう」と述べた時から、人類の思考は異端化した。

聖書信仰に立たない限り、どんなに科学が進歩して人間の力が増したように思えたとしても、裁きを免れることはできない。神はそのような人間の力をひとひねりで潰される。


心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3・5)

 

 

2007年9月17日

 

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