律法は廃棄されたのではなく変換された
<ストレイシープ様>
山谷大尉の論考は一体何なのでしょうか?
山谷大尉殿は、「律法が破棄されたこと」(エフェソ2:15)と、「律法は全うされるべきこと」(マタイ5:15-30)の矛盾を"神学的"に論じて、神と人に対しては律法は破棄され、悪鬼的諸勢力に対しては律法は存続しているとのたまっています。段々と彼のスペキュレーションが進んでいるようですが、大丈夫でしょうかね?この方のオツムの構造に興味がわきました。
http://bbs.infoseek.co.jp/Board01?user=makotoyamaya-lj
<tomi>
山谷氏は、とにかく、問題を避けたがる人ですね。
何度もこちらが問い掛けて、ROMの皆さんが飽きるほど、私は同じ問い掛けをリピートしています。
「信仰は律法を廃棄したのではなく、むしろ確立した」というパウロの発言をどう解釈するか、が問題なんです。
そして、「聖霊による歩みは、律法を全うするためだ」との発言も。
これに答えればよいものを、くだらない論考などをだらだらと述べているようですね。
それから、我々凡人は、歴史的にこれまで先人が考察したことに付け加えられるほどの力量はありません。
山谷氏もその程度の自己評価能力くらいもって欲しい。
山谷氏の言っていることは、これまでどの教派も言っていないようなとっぴなものばかりです。
とくに天使を出して、中間時代の天使観を引き合いに出しているが、そんなユダヤ教思想を取り出して聖書を解釈したら、ユダヤ教思想のほうが聖書よりも権威があるということになってしまうでしょう。
とにかく、これほどの頭の固い人は見たことがない。
よく神学校卒業できましたね。救世軍の神学校の先生たちは何をやってるんですかね。それとも救世軍がそういうものなのか。
としたら恐ろしいですね。
エペソの個所ですが、これは律法廃棄論ではありません。
「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2・11−16)
これは、異邦人とユダヤ人についての個所です。
パウロがここで述べているのは、「異邦人とユダヤ人」の隔ての壁となって、互いを分けてきた「律法」の廃棄です。
たしかに、キリストが来られてから、もはや異邦人とユダヤ人の区別はありません。
かつて、神は一つの民族を選び、彼らをモデルケースとして世界中の人々に教訓を与えられた。
「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。」(1コリント10・6)
神は彼らに律法を与えて、民族的に壁を作り、他の民族との交わりを禁止しました。なぜならば、当時は、ユダヤ民族すなわち信仰者という図式があったからです。
しかし、今や、全世界の国民が弟子とならねばならない時代において、このような民族的壁は不要になった。
そこで、律法の「民族的側面」が廃止されたのです。
たとえば、結婚規定などです。ユダヤ人は異民族と(少数の例外を除いて)結婚することができませんでした。
それは、信仰を固く守って、イスラエルを神の民として純潔を保つためです。
むやみに結婚して、配偶者の背景にある偶像礼拝が侵入して国が乱れたという歴史がイスラエルにはありました。
だから、当時、「異民族との結婚」=「偶像礼拝の侵入」という図式があった。
しかし、今やそのような規定はない。我々はどの民族の人とも結婚できる。
なぜならば、今は「民族的経綸」ではないからです。今は、結婚を民族的に考えるのではなく、実体的に考える時代です。
それは、「ノンクリスチャンと結婚するな」ということです。
ノンクリスチャンと結婚することは、「つりあわないくびきをつける」ことであり、配偶者から異なる教えが家庭に侵入し、クリスチャンの純潔は崩れていきます。
旧約聖書のユダヤ人が律法を城壁として、信仰を守らなければならなかったと同様に、現在、クリスチャンは同じように、律法を城壁として信仰を守り、そこに確固とした土台を形成し、そこからさらに、全世界の国民を弟子とするために領域を広げなければならない。
しかし、クリスチャンがノンクリスチャンと結婚することによって、家庭に信仰の一致がないので、そこは堅固な土台とはなりません。それゆえ、いつまでたってもキリスト教は一進一退を繰り返すことになり、大宣教命令は進展しない。
おわかりのように、律法はその「民族的側面」が廃棄されたのであって、律法そのものが廃棄されたのではない。
民族的側面は、キリストという実体が現われたので、「超民族的教え」に転換されねばならない。
もし、まるまるこれらの民族的規定を廃棄するならば、「律法は廃棄された」ということになり、パウロが繰り返しているように「律法は確立された」というのはウソということになります。
聖書を読むときに必要なのは、「調和」なのです。
自分が言っていることが聖書の他の個所と矛盾してはならないのです。
それゆえ、私たちは次の2つを調和させるようにしなければならない。
(1)パウロは律法は廃棄されたのではなく、確立されたとローマ書で言っている。
(2)しかし、同時に民族的隔ての壁としての律法は廃棄されたと述べている。
これら2つを調和させるには、山谷氏の解釈ではだめです。
「神と人にとって律法は廃棄された」というのは、「廃棄された」ということと同じだからです。
これは、(1)と矛盾する。
だから、律法を確立させる方向で、民族的隔ての壁としての律法の無効性を説明しなければならない。
わたしは、律法は民族的な教えから超民族的な教えに転換すべきだ、と考えます。
これは、モデルから実体への変換と同じです。
ある画像を別の形式の画像変換する場合、もとの画像が消えてなくなることはありません。
それと同じように、律法も新約聖書になったら消えてしまった、ということではない。
かつては特定のOSでしか読み込めなかった画像を、どのOSでも読めるような画像に変換したのと同じです。
律法はユダヤ人だけのものではなくなった。それは、人類に普遍的に適用できるものに変換しなければならない。
山谷氏は、変換するのではなく、消去しちゃったんですよ。
これは、イエスがマタイ5章で「廃棄するために来たのではない」と言っておられることと明らかに矛盾するでしょう。
パウロはクリスチャンに向けて「律法も言うように、・・・しなさい」と言っているでしょう。
これは、「消去されていない」ことを如実に示している。
山谷氏が律法廃棄論を主張する根拠としたガラテヤ書においてだって、「このようなものを禁ずる律法はありません。」(5・23)といわれているじゃないですか。
律法はあくまでも「基準」として扱われていることは明らかです。
この問題は、これまで改革派の中でもあいまいな部分があったが、今やはっきりしました。
ウェストミンスター信仰告白では、「司法律法は適用されない」というが、どこにもそれを支持する個所はありません。
ここで、ウェストミンスターすらも、「変換」ではなく、「消去」したんです。
この意味において、ウェストミンスターのキリスト教は、ディスペンセーショナリズム的です。
画像を丸々消すことはしなかったが、一部欠損を生じさせたようなものです。
我々は、このような不徹底な理解ではなく、はっきりと「律法は丸々残った」と主張します。
ただ、「変換された形にはなったが」と付け加えますが。
さあ、この私の解釈に反論できるでしょうか。
2004年6月23日
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