モーセ律法を悪者扱いするな!


<O様>
さて、本日は律法についてです。
福音派・聖霊派いずれも「新約時代は、イエス様が成就して下さったから、もう何で
もあり!内なる咎めやどなたかから叱責されたら、十字架と血潮の下に来たらリ
ニューアルされて、これで万事すべてはOK!」という考えが蔓延しているようです。
バーンセン読むと(すみません、今のところ2/3までですが・・・)そうではない
ことがはっきりするのですが、皆さんはバーンセンをまるで異端であるかのように避
けるのですね。
「ソドムやゴモラ」状態になる事を危惧します。
参考までに資料(唐沢先生のページから頂戴しました。)添付します。
宜しく後講解・御指導下さい。よろしくお願い申し上げます。
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/priest_law.html

<tomi>
まさにご指摘のとおりです。
人々は、巧みに理屈をこねくりまわして、律法を無効にしようと苦労しています。
しかし、彼らの理屈は聖書から徹底して反駁されなければなりません。

ご指摘のページについてコメントいたします:

>■祭司制と律法について
>クリスチャンと(旧約)律法の関わりに関しては別のスレッドで述べていますが、
>神の御心は律法にあるのではなく、アブラハムに対して与えられた約束にあり
>ました。この約束はひとりの子孫(単数形)に向けてなされたものであり、これ
>はすなわちキリストです(ガラテヤ3:16)。この約束は律法が与えられる430年
>前に与えられたものであり、その当時アブラハムはもちろん割礼も受けており
>ませんし、律法もありませんでした(同3:17)。ですから彼は律法を行って義と
>されたのではなく、信じたから義とされたのです(ガラテヤ3:6;ローマ4:12)。

>つまり旧約の律法は付加的なものであり、約束の子孫(キリスト)が現れるまでの
>養育係であり、違反を示す(私たちの内にある罪を示す)ために与えられたもの
>でした(同3:19,24;ローマ7:8)。もちろん律法は聖であり、正しいものです(ローマ7:12)。
>しかしこの律法はアブラハムへの約束を無効にすることはなく、むしろ約束の方が
>優先するのです(同3:17→「教会とイスラエルの関係について」参照)。

>今や約束の子孫が現れた以上、私たちはその養育係である律法の下から解放さ
>れたのです(ガラテヤ3:25)。これは私たちが律法に対して死ぬことによります。死
>んだものは過酷な要求をする夫から解かれたのです(ローマ7:4,6)。私たちはもは
>や律法の下にはおりません。この律法は私たちに神の標準を生きさせてくださるい
>のちを与えないために不完全なのです(ガラテヤ3:21)。私たちの肉が無力なため
>に、それをなし得ないのです(ローマ8:3)。

<tomi>
この説は、恐らくディスペンセーショナリズムの「律法対約束」という対立構造に基づいていると思われます。

契約神学は、このように律法と約束を対立するものと解釈しません。
それは、パウロが次のように述べているからです。

「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)

律法と信仰(約束)は、「あれかこれか」の二者択一ではありません。

信仰は、律法を確立するのです。

ディスペンセーショナリズムの人々は、律法の3つの効用(1.人を断罪する、2.人を救い主を求めるように追いたてる、3.人に義の道を教える)のうち前者2つしか言いません。

こうしてディスペンセーショナリズムは、「律法対福音」「律法対約束」「律法対信仰」というように、律法を悪玉としてしか見ないのです。

しかし、聖書を見ると、パウロは、律法をけっして悪玉として見ておらず、それを教導者として見ています。

「教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。」(1コリント14・34)

ここで律法はクリスチャンへの権威として扱われています。

これらから分かることは、クリスチャンは「断罪し、キリストへ追いたてる」律法(第1効用、第2効用)からは救われ、その下にはもはやいないが、しかし、教導者としての律法(律法の第3効用)からは解放されていない、ということです。

律法は、クリスチャンにとって依然として権威として残っているのです。

>元々の神のご計画は、私たちをいのちの木の路線上に戻し、私たち
>のうちにご自身のいのち(Zoe)を吹き込むことにありました(cf.ヨハネ20:22)。
>律法はあくまでも善悪を知る知識の木の路線上で与えられたものに
>過ぎません。仮に旧約律法を100%守ったとしても、いのちを得るこ
>とができません(ガラテヤ3:21)。鍵はいのちにあることを注意してください。

<tomi>

律法は、いのちの木の路線上で与えられたものです。

「彼らに言った。『あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。
これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。』 」(申命記32・46-47)

「これは(律法は)…あなたがたのいのちである」とはっきり記されています。

律法とは、イスラエルが繁栄し、命の民としてふさわしく歩むにはどうしたらよいか、を教えているのです。

律法を守ることによって、イスラエルは繁栄するはずでした。しかし、逆らったためにのろいが下りました。

旧約聖書全般にわたって、律法は「いのちの言葉」として扱われています。

「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」 (イザヤ2・3)

ここで「みおしえ」は、原語で「トーラー(律法)」です。

律法が否定的に扱われるようになるのは、主にパウロからです。

しかし、パウロは、律法そのものを「滅びの言葉」とか「善悪の木の路線の言葉」とか「束縛の言葉」として扱ったことはありませんでした。

むしろ、先に述べたように、「教導者」として扱っていました。

それでは、パウロはなぜ律法を攻撃したのでしょうか。

パウロがさかんに攻撃している律法は、「律法によって永遠の命を得ることができる」と説いていた律法主義者の律法であって、旧約聖書が示している正しい律法とは異なります。

旧約聖書が示している律法は、けっして「これを守れば永遠の命に与ることができる」などと言っていません。

「義認」は、信仰によるとはっきり記されています(ハバクク2・4)。

パウロは、異端者(律法主義者)が信じていた律法を攻撃したのです。

本来律法は、救いを得るための道具ではありませんでした。

それは、人々に罪を自覚させ、救い主を待望させ、贖いを得させるための「救済のシステム」でした。


>ではクリスチャンは自分勝手ができるか、放縦に落ちることがで
>きるかというと、そうではありません。むしろ逆です(ローマ6:1-2)。
>なぜなら神は石の板に書かれた律法ではなく、私たちの心に書か
>れた律法を与えたからです(ヘブル10:16;エレミヤ31:33)。私たち
>は罪に定めるだけの、肉に関わる規定である古い律法から解放さ
>れています。が、心に書かれた完全な律法、自由の律法のもとに
>あります(ヤコブ1:25)。

>この律法(Law)はいのちの律法であり、別名いのちの御霊の法則
>(The law of the Spirit of Life)と呼ばれます(ローマ8:2)。この法則
>に乗る時、罪と死の法則から解かれて、私たちはまことの自由を享
>受します。この法則は旧約の律法よりもはるかに優れた律法であり、
>その標準を生きることが可能となるいのちを与えることができるのです。


<tomi>
繰り返しますが、モーセの書かれた律法は「罪に定めるだけの肉に関わる規定」ではありません。

それは、「いのちへの律法」であり「自由の律法」だったのです。

もし、律法が「奴隷の律法」であるとしたら、神はイスラエルをエジプトから解放したが、その後「新たな奴隷主」になった、ということになります。

イスラエルは、以前奴隷主エジプトから逃れたが、今度は神という新しい奴隷主のもとに隷属させられたと。一難さってまた一難と。

そうでしょうか???

神は十戒を与える際に、「私はあなたがたを奴隷の家から連れ出した主である」と宣言されています。

これは、「新たな奴隷主宣言」なのでしょうか???

違う!!!

神が十戒や律法を与えたのは、イスラエルを縛るためではなかった。

イスラエルは、律法によって解放されたのです。

「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。 」(詩篇19・8)

「主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。 」(詩篇94・12)

「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。」(詩篇119・93)

旧約聖書には、律法を喜ぶ御民の歌が無数にあります。

モーセ律法を敵視し、新たにモーセ律法とは異なる「自由の律法」「心に書かれた律法」などというものがあるかのように言うのは間違いです。(*)

神がお一人なら、法も一つ。

神は、あるところでは、このような法を施行し、別のところでは、別の法を施行した、というならば、神とはダブルスタンダーダーだということになります。

ディスペンセーショナリズムは、このように「神は数多くの互いに矛盾する法を施行された」と説くがゆえに、神の絶対性を侵しています。

神は絶対者であり、変わることがなく、ひとつの法を施行される。



(*)

「心に書かれた完全な律法、自由の律法」「キリストの律法」とあるのは、モーセの律法と別のものではありません。

キリストが宣言されたように、律法は永遠なのです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5・17-18)

もしモーセ律法とは別の律法があると主張するならば、イエスが言われた「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはない」や、パウロが言った「信仰は律法を確立する」という言葉は無効だということになりますね。

じゃあ、心に記された律法とは何か、というならば、それは、新たな神殿となったクリスチャンの体(1コリント6・19)の中に至聖所があり、その中に十戒の板を収めた箱があるということでしょう。

我々の存在、その肉体と心は、生ける契約の箱、生ける十戒なのです。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31・33)

ノンクリスチャンも「神の似姿に作られた存在」ですから、破壊されてはいますが、律法は心に書き記されています。

「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」(ローマ2・14-15)

しかし、クリスチャンは、生まれ変わった時に、神の聖霊の宮、神殿と作りかえられたのですから、律法がはっきりと心に記されており、それゆえ、ノンクリスチャンよりもはるかに罪に対して敏感なのです。

 

 

2005年10月2日

 

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