自分がまいたものを刈り取る用意があるか


最近、ノイローゼになる教師が増えているという。

理由はモンスターペアレントだと。

私の友人の教師もその被害にあった。

いろいろと文句を言う。妙な助言をしてくる。

「先生には、もっと大きな器になってほしいと思うのですよ」とか。

これは牧師などにも言えることで、今の信徒の中には、牧師と信徒の間の垣根を無視する人々がいる。

聖書的に言えば、牧師と信徒の立場は本質的には平等であるが、社会機能的にはそうではない。

彼らは、本質的な平等と機能的な平等を混同している。

牧師も信徒も同じクリスチャンであり、神の御前においてどちらが存在的に価値があるかについて平等である。

神は人を偏り見られない。

しかし、社会機能的に、神は人々の間に権威に差を与えられた。

だから、牧師は信徒を指導する立場にあり、それゆえ信徒は牧師を恐れなければならない。

それは、その人間が素晴らしいから恐れなければならない、というのではなく、その人間が神に任命されているから恐れなければならないのだ。

我々は、警察官を恐れるのは、その警察官が人間的に立派であるからではない。背後に国家権力、法秩序があるからだ。

教師も同じで、父兄は教師を恐れなければならない。それは、その教師の人間性と無関係である。

どんなに駄目な教師でも、その「社会的権威のゆえに」恐れなければならない。

この「本質的」と「社会機能的」の区別は重要である。

なぜならば、それは、神の三位一体における存在のありかたに源があるからだ。

神に3つの位格は、存在論的、本質的に平等であるが、社会機能的、契約的に平等ではない。

子は父に従い、聖霊は両者から派遣される。

親の学歴があがり、教師を下に見るようになったのが、今のモンスターペアレントの問題の一因だろう。

しかし、考えなければならないのは、教師は、その務めのゆえに、恐れるべき存在だということだ。

恐れがなければどうなるだろうか。

「裁き」である。

社会的裁きが伴う。

どのような組織も秩序が成立するためには、ヒエラルキーがあり、そのヒエラルキーを乱すような人間には刑罰が下る。

だから、教師を人格的に尊敬できないからぞんざいに扱うことができる、反抗することができる、などと考えている父兄は刑罰に値するのだ。

もしそのような教師が不適切であると思うなら、上層部に訴えろ。

上層部が判断して不適切でないとなれば、子供を学校から出せ。

組織に加わりながら、反抗を続けるということは、神が立てた権威に逆らうことであるから、必ず自分の身に裁きを招く。

長期的に見て、その親は自分がまいた種を刈り取る。

「甘やかした子は、親に恥をかかせる」というソロモンの箴言にあるように、子供とは、自分の人生の結果である。

自分の人生がどのようなものであったかを示す「通信簿」である。

神はあなたに恥をかかせる子供を通じてあなたに勤務評定をつけられる。

もちろん、例外もあるからすべてがすべてと言えない。

アメリカの公教育を推進した共産主義者に、立派なクリスチャンホーム出身者が何人かいる。

聖書には「正しくしつけたのに、頑固に反抗し、直らない子供」を前提とした法律がある。

だから、判断は慎重にしなければならないが、しかし、総合的に見て、子供は自分の人生の一つの結果である。

さあ、モンスターペアレントたち、モンスター教会員たち。

文句ばかり言って、権威者を困らせる人たち。

自分の上位者に対して説教を垂れる傲慢な人たち。

あなたは、自分がまいたものを刈り取る用意があるか。

 

 

2009年5月2日

 

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