ウイットネス・リーとその教会について
<Perter様>
拝啓富井先生
いつも啓発される内容を拝読して感謝いたしております。昨今の教界の状況は、ご指摘のとおりと感じ入っております。
さて、実は今2chにて、ウイットネス・リーとその教会についての議論がなされております。この人の教えについて先生のご意見をいただければと思いましてメールいたしております。この人の教えのポイントは、
(1) 神の三位一体は、父・子・聖霊は区別されるとしつつも、イザヤ書9章のみどりごは神格の御父であるとし、またキリストは御霊になったとします。つまり父は子であり、子は霊であるというわけです。
<tomi>
拙文をお読みくださりまことにありがとうございます。
「父は子であり、子は霊である」ということを支持している個所は聖書のうちにありませんので、誤謬と思われます。
イザヤ9・6では、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」とあります。
これは、メシア預言であり、このメシア預言がナザレのイエスに於いて成就したと考えるのがキリスト教なのですから、このみどりごは、イエス・キリストを表していると考えるべきでしょう。
さて、イエスは、御父に向かって「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」(ヨハネ17・28)と言われました。
ですから、みどりごを使わしたのは、御父である、と考える必要があります。
つまり、この個所は、御父と御子とを明確に別人格として区別すべきであり、混同を禁止しています。
また、キリストが御霊となったのであれば、次の個所を合理的に解釈できなくなります。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」(ヨハネ16・7)
御子は去り、その代わりに助け主が来るのです。入れ替わるのです。イエスはここで「もしこのまま私が弟子たちとともにいるならば、それは益にならない。助け主である聖霊を遣わしていただくためには、私は去らなければならない。」と言っておられる。
もしイエスが御霊と同一であるならば、「弟子たちは相変わらず益を受けない」ということになってしまいます。
聖書は、はっきりと、「イエスは、天に昇り、現在、神の右の座についておられ、御霊はクリスチャンの体を神殿としてそのうちに住まい、助け主として働いておられる。」と証言しています。
両者を混同することはできません。
<Perter様>
(2)人の体の中にはサタンが人格として住んでいるとします。これが原罪であり、これを「サタンの受肉」と言っているようです。
<tomi>
原罪とは、契約違反をしたため、契約の刑罰を受けるべき状態のことを言います。本来人間の体には聖霊がお住まいになっていましたが、罪人となったために、去ってしまわれた。我々がキリストを信じることによって恵みの契約に入ると同時に、我々の体には御霊が住んでくださる。御霊は我々に真理を知らせてくださり、聖書の教えを悟らせてくださる。
このように、人間の体は霊の住みか、家のようなものとして造られている。だから、サタンや悪霊が住むことがあります。憑依の現象は聖書にはっきりと記されています。ユダに、サタンが入ったとはっきりと書いてあります(ヨハネ13・27)。
しかし、すべてのノンクリスチャンにサタンが住んでいると考えることはできません。なぜならば、サタンは被造物である悪霊の頭目であり、普遍的存在ではないからです。聖霊は神であり普遍的存在ですが、サタンは被造物であり、空間的に限界があります。聖霊は全知ですが、サタンは全知ではないので、手下の悪霊から報告を受ける必要があります。
ノンクリスチャンには、悪霊が住むことがあります。場合によってはおびただしい数の悪霊に占領されることがあります(マタイ8・28以降)。聖書の教えと異なることを信じ、語っている場合、その人は悪霊が作り出した偽ものを耳で聞き、悪霊によって内部から教えられています。
クリスチャンでも、心に隙があると、サタンや悪霊はその部分を利用しようとします。たとえば、占いの罪を犯すことになれてしまった人は、その部分を自分たちの領域として悪霊に利用されます。クリスチャンになって自由人になったにもかかわらず、占いや方位、迷信などに動かされている人は、部分的にサタンの支配を受けているのです。
悔い改めて、完全に追い出すことがなければ、そのサタンの領域はどんどん心を蝕んでいきます。そして、ついには完全に支配し、クリスチャンとして証しにならない生活を送らせ、犯罪を犯させたり、キリストの顔に泥を塗るようなことをさせます。
私たちには、悪霊をも支配する権威が与えられているのですから、悲観的にならず、主によって聖めていただくことができます。
<Perter様>
(3)聖化については、神性と人性が混ざり合って、人は神となる(ただし礼拝対象の神格はもたないそうです)と言います。人は神・人(God-man)となるというわけです。
<tomi>
聖書は、神と被造物を別物として扱っています。この区別は明確です。教会はキリストの体であると言いますが、教会はそれゆえ礼拝の対象となるかというと、聖書では、被造物のいかなるものも礼拝対象とすることを禁止しています。
ですから、教会はたしかにキリストの体ですが、それは、存在論的に混在するということではなく、法的(契約的)に混在するということです。結婚によって、男女は一体となりますが、しかし、それはやはり2つの存在でありつづけるのと同じです。法的に一つの実体になりますが、しかし、男は男、女は女として、独立して存在しつづけます。神は、結婚した男女を契約的個人としてごらんになりますので、契約的祝福を一人の人のように夫婦に与え、契約的刑罰を一人の人のようにお与えになることがあります。一つの有機体として夫婦を取り扱われる場合がありますが、しかし、神は夫と妻それぞれの個性を認め、互いに別の人格であるとも考えておられる。
クリスチャンは、キリストの体である教会に加えられます。それは、キリストの体の一部となることですから、ある意味において「神・人」になったとも言えます。クリスチャンは、キリストにあって、王である、と言われています。しかし、それは、契約的、法的な意味でそうだというわけであって、実体的に神になったわけではありません。
我々はあくまでも被造物であり、被造物としての立場を超えることはできません。しかし、じゃあキリストと無関係で、キリストの持っておられる統治権とは無関係か、というとそうではないのです。
妻は夫ではありませんが、夫の代理として何らかの権威を持って行動することがあるのと同じように、クリスチャンはキリストではありませんが、法的にキリストの御体の一部なのですから、法的に権威を帯びて行動することができます。
2006年3月30日
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