ヒューマニストには科学をする権利がない2
実は、デカルトの認識論は、聖書の三位一体の神の類似物なのだ。
デカルトの認識論は、「人間を自立したもの。自己完結したもの」というところに土台を持っている。
他に依存しないで何とかやろうという考えだ。
聖書的キリスト教は、同じように「神は自立しており、自己完結しておられる」と考える。
神は被造物に一切依存しない。
ここにすべての認識の出発点があるとする。
神はご自身について完全な知識を持っておられる。
これが認識の出発点だ。
神の自己知識。
被造世界が一切存在しなかったときに、神だけがおられ、神の三位は互いに完全な知識を持っておられる。
知識と呼ばれるものはこれしかなかった。
この神の絶対的知識こそが唯一の確実な土台である。
人間が自分の疑いようのない「疑っている自分」を出発点にするヒューマニズムと聖書的認識論は、対極に位置する。
聖書的キリスト教とヒューマニズムは、
「疑いようがない自分」が神であるか、それとも自分であるかの違いだ。
我々聖書的キリスト教徒は、もっとも確実な土台「神の自己認識」に立脚している。
この神が被造物に啓示された聖書は絶対的な知識である。
ヒューマニズムは、
疑いようのない自分→自分の体験する周りの世界
疑いようのない神の自己知識→神の啓示された知識
2010年3月15日
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