ヒューマニストには科学をする権利がない2


実は、デカルトの認識論は、聖書の三位一体の神の類似物なのだ。

デカルトの認識論は、「人間を自立したもの。自己完結したもの」というところに土台を持っている。

他に依存しないで何とかやろうという考えだ。

聖書的キリスト教は、同じように「神は自立しており、自己完結しておられる」と考える。

神は被造物に一切依存しない。

ここにすべての認識の出発点があるとする。

神はご自身について完全な知識を持っておられる。

これが認識の出発点だ。

神の自己知識。

被造世界が一切存在しなかったときに、神だけがおられ、神の三位は互いに完全な知識を持っておられる。

知識と呼ばれるものはこれしかなかった。

この神の絶対的知識こそが唯一の確実な土台である。

人間が自分の疑いようのない「疑っている自分」を出発点にするヒューマニズムと聖書的認識論は、対極に位置する。

聖書的キリスト教とヒューマニズムは、

「疑いようがない自分」が神であるか、それとも自分であるかの違いだ。

我々聖書的キリスト教徒は、もっとも確実な土台「神の自己認識」に立脚している。

この神が被造物に啓示された聖書は絶対的な知識である。

ヒューマニズムは、


疑いようのない自分→自分の体験する周りの世界

という順番で認識を行うが、聖書的キリスト教は、

疑いようのない神の自己知識→神の啓示された知識

という順番で認識を行う。

前者の場合、すぐに確実さは失われる。なぜならば、「普遍的知識の正当性」を証明できないから。つまり、科学を成立させる基本である「法則は普遍的に適用できる」を証明できないから。

後者の場合、世界は一人の神によって統一的存在として創造されたので普遍的知識は正当であるとの啓示がある。だから、人間の科学的認識の行為に首尾一貫性を与えることができる。

我々は、聖書的キリスト教にたつときに、絶対的な確実性を与えられる。

なぜならば、その出発点が被造物にはないからだ。創造者であり、第一原因であり、絶対者である神の自己知識という至上の確実な知識を第一の前提とするから。

「人間を出発点にする」思想か、それとも「神を出発点にする」思想か。

これこそが今の世界の根源的な対立である。

 

 

2010年3月15日

 

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