先祖や子孫を重視すべきだ
幼児洗礼否定論者に私が賛同できないのは、聖書の契約を無視しているからである。
アダムはサタンの誘惑に乗って罪を犯し、サタンと契約を結んだ。神との契約の中から出て、サタンの契約の中に入った。
だから、我々アダムの子孫は「生まれながらに御怒りを受けるべき子」(エペソ2・3)なのだ。
間違った教育によって個人主義的に考える現代人は、「え〜?生まれながらに怒りを受ける?そんなむちゃくちゃな・・・」と感じるだろうが、聖書の理屈は我々の常識とは異なる。
聖書の論理は、契約の論理である。契約とは「子孫とも結ばれる」のだ。
それゆえ聖書の世界は、「血」を重視する。誰の子として生まれてくるかは我々にとって決定的な問題だ。
遺伝ということを考えてもわかる。我々は、親の素質を濃厚に受け継ぐ。
黒人の親からは黒人の子供が生まれる。我々は親の肉体的・性格的素質を少なからず継承する。
神は、我々の誕生を遺伝に支配されるように創造された。その事実から見ても分かるように、我々は「個人主義的」には生まれてこない。
聖書契約において「継承」「相続」は重要な要素である。
だから、神がイスラエルに対して幼児に割礼を施せと命令されたのには、契約的な意味がある。
つまり、「あなたがわたしとの契約に属しているのだから、あなたの子孫もその契約に属している」ということだ。
我々がクリスチャンになって洗礼を受けたということは、我々の子孫もクリスチャンになったということであるから、それゆえ子孫も洗礼を受けてそのしるしを負うべきなのだ。
現代人が「子孫は関係ないでしょう」と考える傾向があるのは、聖書的に思考するように訓練されていないからだ。
聖書を読めば、あらゆる箇所に「先祖」の話が出てくるのに気づくだろう。
神は「アブラハムとの約束を思い出し」、民への怒りを収めたという箇所が出てくる。
世界の現実は、「血縁」的である。
神は、血縁的に我々を扱っておられる。
我々は、まず家族を、そして親族を、そして、日本人を、そして、世界の人々をという優先順位で思考すべきだ。
ここからサタンの我々に対する攻撃も見えてくる。
サタンは、我々を個人主義者にしたいのだ。
信仰を個人主義的に変え、子孫への相続を軽視し、信仰的継承、財産的継承を放棄させようとしている。
そして、我々の子孫を自分の契約の中に連れ戻そうとしている。
せっかくキリストの契約の中に入ったのに、子孫が再びサタンの契約の中に入れば、それから再び我々の周りにはサタンの契約的支配が広がる。
契約に入れば、自動的に子孫もその契約に入るからサタンの子はサタンを生む。その子はまたサタンの子を生み、世界は徐々にサタン化される。
幼児洗礼を否定する教えは、非契約的であり、それゆえサタンの術中にはまっているのである。
(*)
では、我々の子孫が自動的に契約の中に入るということになれば、我々の子供の中でどうしようもない背教者が出た場合、彼も自動的に御国に入るのか、という疑問が起こるだろう。
違う。聖書において、「自発的に信仰から出る者」は、「死人」とみなされている。
放蕩息子が帰ってきたときに、父親は彼のことを「死んでいたのによみがえった」と言った。
「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。」(ルカ15・32)
2007年12月1日
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