格差って悪なの? 2


ある知識人がTVで「今格差が広がり、人々の間に不満が広がっている。」と言った。

格差が広がることに不満を覚える人は、「人の幸せをねたむ人」であって、まともな人間ではないのだから、そんな人間の気持ちを基準にしてものを考えてはならない。

こういったねたみの気持ちを合法化したのは、マルクス主義の教育なのである。

我々は学校において「人間はみな平等であるべきだ。収入に大きな差が生まれるのはよくないことだ。みんなが同じような均質な生活ができるようになるこそ政治の目的だ。」みたいなことを教えられてきたので、格差が生じることに怒りを覚えるようになってしまったのである。

このように言うと、「tomiさん、じゃあ、あなたは封建社会がよかったと言うのですか。」という人がいる。

私は封建社会がいいなんて一言も言っていない。

封建社会とは生まれによって階級が決定され、それによって、才能のある人材が自分にふさわしい仕事につけないという問題があった。

これは、「スタート位置に差をつける制度」であり、私が述べている平等とは異なる。私は、機会は均等に与えられるべきだと考えている。

私が非難しているのは、「結果の平等」である。

みなが均質な生活を送れる社会など、不可能である。

人間には、努力をし、目標を目指して自己研鑽を積む人間もいれば、努力をいとい、怠惰に暮らすことを願う人間もいるのである。

こういった千差万別な人間に平等の生活を保障することなどできるわけがない。

クリスチャンの間に大きな誤解がほぼ全体に蔓延している。

それは、「クリスチャンは、みんなの幸せを願っている」というものである。

違う。

聖書はそんなことを教えていない。

聖書では、「人は自分のまいた種を刈り取らねばならない。」と教えている。

つまり、その人の行動に応じて、結果に差が出ることを前提としている。

だから、死刑廃止論者や刑罰軽減主義者は、クリスチャンではない。

格差の広がりに不平不満を言うことはできない。

それは、共産主義の道徳であり、クリスチャンの道徳ではない。

 

 

2006年10月17日

 

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