再建主義批判のサイト(米)への応答4
<RNCI>
再建主義は、民主主義を廃するだけではなく、その表現であるところの、たとえば、労働組合や、市民権法、公立学校なども廃棄しようとしている。クリスチャンとして半端者には市民権が与えられず、処刑されることもある。この神裁政治は厳格であり、誘拐、レイプ、殺人のような犯罪だけではなく、冒涜、異端、姦淫、同性愛者も処刑される。
("Christian Reconstructionism: Theocratic Dominionism Gains Influence: Part 1 -- Overview and Roots," by Frederick Clarkson, 3/94 The Public Eye).
<tomi>
(1)
再建主義は、民主主義を欠陥のある制度と考える。民主主義とは、民意をその政体において絶対的な地位につけるのであるが、民意は絶対になってはならない。
なぜならば、民は神ではないからだ。民の考えることは、絶対の基準にはなりえない。それは大いに間違うものである。
聖書は、「自分の悟りに頼るな。」と教えている。また、「人の心は甚だしく陰険であり、それは直らない」とも。
聖書を信じるクリスチャンは、人間の悟りだとか、自然法だとかに頼らない。御言葉を絶対視する。この世界を創造した神の意見こそ法律の基礎としなければならないと考える。
(2)
再建主義は、「労働組合や、市民権法」を否定しない。私が知る限りでは、労働組合を否定した再建主義者の論文を読んだことがない。市民権に関する法律を否定した論文も読んだことがない。
労働者が組合を作って自分たちの権利を主張することのどこに問題があるのだろうか。今日の憲法に記されている基本的人権などは、聖書が唱える人間の権利と調和するだろう。
(3)「クリスチャンとして半端者には市民権が与えられず、処刑されることもある」なんてこと誰も言っていない。
我々が述べているのは、「教会員ではない人間は、参政権(市民権ではなく)がない」ということだ。
教会員と言っても、聖書を神の無誤無謬の言葉であると信じる正統的な教会の会員である。
神が地上統治を命令されたのは、「堕落前のアダムに」であり、「義人ノアに」であり、「無原罪のキリストに」だった。
つまり、神の御心を知り、それを忠実に行う者に統治の権利が与えられたのである。今の普通選挙では、御心とは無関心な人々にも選挙権が与えられるので、欧米ではホモの結婚すら合法化されている。聖書によれば、ホモなどがはびこる社会には、「神の御怒りの火」が下るのである。
だから、聖書的な選挙制度とは、絶対に普通選挙ではない。明らかに、参政権者を制限しなければならない。誰に制限すべきかといえば、もちろん、聖書が述べる「統治者としてふさわしい者たち」にである。つまり、クリスチャンにである。
聖書において、クリスチャンは王と呼ばれている。クリスチャンはすでに復活し、天のところに座っているとも。
クリスチャンと言ってもいろいろいる。自称クリスチャンで、まったく聖書を無視して生活している人もいる。こういった人々に参政権を与えると、政治がゆがむ。
だから、我々は参政権を「教会の戒規処分を受けていない、正会員」に限定せよ、というのだ。
戒規処分を受けている人は、もはやクリスチャンではない。悔い改めて戻ってくればクリスチャンになれるが、頑固に悔い改めない人は、クリスチャンとして受け入れられないのであり、それゆえ聖書が教える統治者ではない。
教会が堕落していて、まともなクリスチャンが除名されるということもよくある。だから、教会の判断も間違うという前提に立ち、よく双方の見解を吟味して、他の教会はその無実の人を受け入れるべきである。
(4)半端者のクリスチャンを処刑せよ、なんてラッシュドゥーニーが書いたのを読んだことがない。ゲイリー・ノースもそう。ゲイリー・デマーもそう。ケネス・ジェントリーもそう。いったいぜんたい、誰がそんなことを言ったのか???
クリスチャンとして未熟な人は、たとえ除名されることはあっても、処刑されることはない。教会には処刑する権限はない。市民法において重大な違法行為があった場合(たとえば、故意の殺人など)、処刑されることもあるかもしれないが、そうでなければ、単にクリスチャンとしてチャランポランだとか、未熟だという理由だけで処刑なんてされるわけがない。
パウロは、「気ままな者を戒め」なさい、と牧師に命じている。それほど重大な罪を犯しているわけでなければ、長い目で見て、愛の配慮をするべきであって、牧師は性急な審判を下すべきではない。
(5)「この神裁政治は厳格であり、誘拐、レイプ、殺人のような犯罪だけではなく、冒涜、異端、姦淫、同性愛者も処刑される」
たしかに、聖書では、これらの罪は処刑の対象である。しかし、我々はこれらの罪に対して処刑の判決を下すことを、反対者が圧倒的多数を占める社会において適用することを目指しているのではない。
まず、社会においてクリスチャンの数が増えなければならない。そして社会全体に、神の法への愛が生まれ、神の法を適用することに国民的な合意が形成されなければならない。
つまり、その国の文化がクリスチャンにならない限り、そのような法律を強制することはできない。そのような適用は、神の愛と矛盾する。
再建主義が述べているのは、革命ではない。共産革命のように、武力によって国民に法を押し付けるという方法は聖書的ではない。
姦淫に対する死刑を定めたモーセ律法は、「モーセ律法を守ることを同意したイスラエル人に」適用されたのである。
2006年2月21日
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