聖書原理主義こそ我々を痴呆と自殺から救う唯一の道だ
「私は、聖書に対して疑いを持つようになりました。」という人は、もうそう言った時点で完全に迷路に迷い込んだ。
なぜならば、聖書は、神の言葉であり、最高権威である。
最高権威を疑うということは、「私は重力の法則を疑います」といって、窓から飛び降りる人と同じである。
重力の法則を信じないという時点で、その人は狂ったのだ。
重力の法則は厳然として存在し、それを変えたり疑うことはできないものを疑っているわけだから、自分で自分を愚か者にした。
だから、聖書を疑うことは、馬鹿への一里塚である。
そして、自殺への一里塚だ。
最高権威とは疑うことができないものだ。疑うことができないものを最高権威ともいう。
世界最高の山よりも高い山に挑戦する人は馬鹿である。
そして、私は最高権威よりも高い山から見下ろした、という人も馬鹿である。
聖書とは、「私は有無を言わず信じ、従います」という対象でしかない。
それ以外の可能性は一切ない。
「tomiさん、それは原理主義ですよ」という人がいるかもしれないが、私はその人に「そういうあなたは、人間理性原理主義ですよ」という。
なぜならば、その人は「私の理性は聖書を超えている」と宣言しているからだ。
その人にとって人間理性は世界最高の山である。
人間理性は出発点である。だから、「原理主義」なのだ。
人間は、原理主義から離れることはできない。
つまり、前提を持たないということはできない。
誰でも前提を据えてそこからものを考えている。
問題は、前提に立つか否か、ではなく、前提は何かである。
「絶対者3人が一人であるということは数学的にありえない」という人も同じ。
数学によって聖書を評価している。
つまり、数学的思考を絶対化している。
そこですでに原理主義である。
我々は、「聖書にそう書いてあるから、三位一体は正しい」としなければならない。
数学的に考えて正しいか正しくないかは問題ではない。
そういうアプローチは、違法である。
人生において思考方法をすべて「聖書にこう書いてある」「こう書いてない」というところから出発すべきだ。
聖書原理主義こそが、我々を痴呆と自殺から救う唯一の道だ。
2010年7月4日
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