義人は信仰によって生きる



ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。(ガラテヤ3・11)

諸悪の根源は、信仰によって生きないということにある。

信仰ではなく、現実だけを見て生きると悪に傾く。

犯罪者はその典型である。

道徳規範に従うのではなく、自分の欲望を最優先する。

クリスチャンは、現実ではなく、幻を見て生きる。

幻とは、理想である。

それは、聖書の約束である。

クリスチャンは、次の教えを心に常に持ち、信仰によって常に理想を追求しなければならない。

この世界はすでに神の国である。

世界のすべての権威の頂点にキリストがおられる。

信仰によって常にキリストの主権を信じ、目の前にある悪に関わらない。

最終的にキリストを信じる側が勝つと信じる。

そして、毎日の義務をこつこつ果たす。

このような基本姿勢を失って、「信仰なんて夢みたいなことをいっていたって始まらない。現実がすべてだ。目の前の悪を行って利益を得よ」というサタンの誘惑に負けると、すべてを失う。

これが人生の分かれ道である。

信仰に依存した人は、優秀の美をとげ、現実に依存した人は、サタンの餌食になって、一生をサタンの計画のために使い、最後に地獄に落とされる。

イエスが荒野で受けられた誘惑はこのようなものだった。

「腹が減ったでしょう。目の前の石をパンに変えて食べなさい。」

イエスは、御言葉によって勝利された。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つの言葉によって生きる」と。

我々は、イエスと同じ試練を受ける。

目の前にあるおいしいご馳走を食べるように誘惑される。

それを食べたら大金持ちだ。権力が手に入る。出世する。有名になれる。・・・

人生の中で誘惑の荒野を経過しない人はいない。

「ええい。信仰なんて何の役にも立たない。食べてしまえ!」と蛮勇を奮って食すれば、一時的に目的のものは手に入るだろう。

しかし、その最後は悲惨だ。

イスラエルの民は、荒野においてサタンのご馳走を食べた。

そのために、カナンに入ることができなかった。

彼らの次の世代になってようやく入ることができた。

本当なら1週間で通り過ぎることができる荒野を40年かかってわたった。

急がば回れ。

目の前のご馳走を食べて偽りの富や権力を手に入れ、国や組織を誤らせた指導者は歴史の中に無数に存在する。

クリスチャン指導者の資質の第一は、信仰によって生きるということだ。

安易な道を選択するな。

環境がどうであれ、ただひたすら御言葉に依存し、神の裁きを待て。

 

 

2010年2月4日

 

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