世界を被造物として見た場合


> イスラエルに旅行に行ってきた教会の人から、まるで故郷に帰った
> みたいだったという声をよく聞きます。
> 日本人が古代から脈々とユダヤ人の伝統を受け継いできているから
> そのように感じるのでしょうね。
> クリスチャンの人と会うと、ずっと前から知っているみたいに感じる
> ように、魂の深い部分を共有しているんだと思います。

まったく同じことをユダヤ人が言っています。
トケイヤー氏は、ユダヤ人が日本に来ると故郷に帰ったような気持ちになる、と言っています。
六芒星というイスラエルのマークが、イスラエルと日本というシルクロードの二つの端にあるというのはなぜでしょうか。
何かの神秘的なつながりがあるとしか考えられません。

> 日本は世界の至聖所となるべく選ばれた地なのでしょうか?
> もしそうだとすればもったいない気がします。

世界において、至聖所はクリスチャンの体です。
クリスチャンの体は、聖霊の宮としてあると聖書ははっきりと述べています。
どこかの地が特別に聖別されているというような区別の仕方は、旧約時代とともに終了しました。
もはや特別の聖地は存在しません。
全世界は神と和解している(コロサイ1・20)ので、すべてが聖地であり、特別に聖なる日も時代も存在しません。すべての時間が聖となりました。

ですから、私が言う至聖所は、宗教的な意味のある特に聖別された土地、神との交わりを持てる土地という意味ではありません。

そうではなくて、この宇宙や地球が、神の被造物であるならば、神の思想によって出来ているだろう、と考えるのです。つまり、被造物は、神や世界の構造を象徴するものであろうと。(*)

たとえば、幕屋の3区画(至聖所・聖所・庭)やノアの箱舟の3つの階、エルサレムの3区画(神殿・ホレブ山・市街)は、世界の3層構造(天・地上・地下)を象徴しています。(参照・James Jordan, Through New Eyes, Wipf & Stock Publishers)

ジョーダンは、この3階構造が、「海から陸を現し、陸にエデンを、エデンに園を作る」という創造の3段階に対応しているといいます。

世界が、偶然に出来たものではなく、神の意図によってできているのであれば、世界は、神の被造世界の構造を象徴的に表現しているのだろうと考えます。

私は、その場合、現代世界の諸国も、この3階構造によって区分できるのではないだろうか、と考えました。

かつて、聖所として選ばれた土地はイスラエルでした。

カナンの土地は、幕屋の内側を表し、エルサレムは聖所を、神殿は至聖所を表していました。

出エジプト記は、イスラエル人が幕屋に入り、聖所と至聖所に入ったことを表現したものです。そして、旧約聖書と新約聖書は、彼らが幕屋に入るのに相応しくないために、そこから追い出された記録でもあります。

紀元70年、罪を犯したイスラエルは、ついにローマに侵略され、神殿は崩壊しました。

その時から、イスラエルは、もはや被造世界の象徴であることをやめた。

では、神はその後、どこを被造世界の象徴として選んでおられるのか。

神はイスラエル滅亡後、世界をのっぺらぼうとされたとは考えられません。

やはり、神は、創世記における陸-エデン-園の3階構造を、この世界の中において表現されているだろう、と思います。

私が日本を至聖所と考えたのはこのような背景があったのです。

しかし、これは、私の個人的な推論であって、事実はまったく別のところにあるかもしれません。

しかし、クリスチャンは、世界を見るときに、このように見るべきだという点では、聖書的と考えます。

世界は自動的に出来上がったものではなく、「被造物」であり、御心の「啓示の書」なのです。

そうであれば、そこから神のご支配の方法を読み取るのは当然と言えないでしょうか。


(*)
たとえば、天体を見、草や花を見るときに、クリスチャンは、そこに神の意志を感じ取ります。

ノンクリスチャンは、「はじめからそこにあるもの」としてしか被造物を見ませんが、クリスチャンは、「つくられたもの」として被造物を見ます。

遺跡発掘者が、ある建物を見て、「これは、〜のために作られた建物だろう」と推測するように、クリスチャンは、「この植物は、〜のために作られたのだろう」と推測します。

無神論のギリシア思想に基づくと、世界の本質は、形相と質量、霊と肉の原理から成り立っていると考えられます。

しかし、クリスチャンは、聖書に基づいて、世界の本質は、天と地、陸と海、男と女、光と影、昼と夜、・・・など、創造の2つの相対する側面、つまり、陽と陰などの原理に基づいて見ます。

創世記の創造の方法を見ますと、神は、ある一つの実体を2つのものに分け、その後合一させます。人間を男と女を分けて、後で結婚させます。

律法においても、神は男と女はそれぞれ神から与えられた特質を発達させて、男は男として成長し、女は女として成長し、両者が合一して一人の人間になる、と言われています。

だから、男が女の服装をしたり、女が男の服装をすることが禁じられています。男は男らしく、女は女らしくあるべきだと言われています。

それゆえ、この性差を撤廃する現代の「ジェンダーフリー運動」は、反キリスト的であり、クリスチャンは反対すべきです。

男性と女性の差が小さくなり、混沌化することは、神の創造の破壊であり、サタンが企図している世界の破壊の一面です。

同性愛も、男女の性差をなくする試みであり、反キリスト的です。

神の御心は、神が分けられた特質を消さず、むしろそれを発展させ、男が男の性質を成長させ、女が女の性質を成長させることにより、互いに異なる個性をもつ者同士が一致し、調和することです。

ラッシュドゥーニーは、ヘブル語の「助け手」という言葉の中に、「鏡」という意味が含まれていると言います。

「『助け手』には、男性の・・・鏡という意味がある。つまり、女性は、宗教や文化において、夫と共通のものを持つべきだということを示している。」(R. J. Rushdoony, Institutes of Biblical Law, p.257)

鏡というものは、不思議なもので、自分自身を映しているようですが、自分とまったく反対のものを映しています。映し出されているのは、左右対称の姿です。似ているが、正反対。これが鏡像です。

夫と妻は、似ていますが、実は反対で、互いに補い合う関係にあります。

神は人間という一つの実体を互いに補い合う二つの実体に分けられ、それが合一することを企図された。

男と女の区別が曖昧になって、合一するのは、調和ではなく、「混沌」です。

だから、私は、キリストの姿を長髪で描くことに反対します。イスラエルの男子は髪を短く切らなければならないと律法にあるからです。

このように、被造世界の完成とは、「個性を保ちながら調和して一致する」ということだと思います。

神が目指しておられるのは、男性は男性らしく、女性は女性らしく、白人は白人らしく、黒人は黒人らしく、中国人は中国人らしく、日本人は日本人らしく、それぞれの個性を大切にしながら、互いに協力し、愛し合い、一致することだと思うのです。

ジェンダーフリーや、同性愛、ユニセックスなどは、神の創造の目的と反する行為、サタン的破壊だと思います。


> 歴史の大きなうねりの中で、これから大事な転換期を迎えようと
> しているのでしょうか?

私の個人的な考えでは、第3千年紀は特別な時期だと思います。
よきサマリヤ人が3日目にけが人のもとに帰ってくるといったり、3日目によみがえるとイエスが言われたり、「3日目」という数字には何か意味があるのでしょう。

政治にしても、経済、科学、人間の営為のあらゆる部分の中心には「思想」や「世界観」があります。
15世紀から20世紀にかけて、人間中心の世界観が世界をリードし、それが、キリスト教の世界観を凌駕しました。しかし、それが失敗であるということが明らかになり、現在、世界をリードするような思想や世界観は存在しません。

世界は、柱となる世界観を必要としています。
ヒューマニズムはカードを出し尽くしたので、ヒューマニズム以外のものが必要です。
イスラム世界では、コーランによる世界再編が企図されてきましたが、イスラム教はごく限られた地域に限られた論理であって、世界全体を指導するようなものではありません。

やはり世界はキリスト教による世界再編を求めていると思います。
そして、そのために必要な人材はすでに与えられてきました。
境界線があいまいになっていたキリスト教とヒューマニズムの間にはっきりとした線引きをしたのがヴァン・ティルでした。
ヴァン・ティルは、神の意見を超える意見は存在しない、だから、聖書を人間の思考の前提として受け入れなければならない、と唱えました。
ラッシュドゥーニーは、この認識論に基づいて、神の法による世界の再編を訴えました。

このヴァン・ティルーラッシュドゥーニーのラインは、世界の思想的流れの中において、真に聖書的で、神の御心にかなった唯一のラインだと思います。

このラインにたって、ゲイリー・ノースやゲイリー・デマー、ケネス・ジェントリー、ジェームズ・ジョーダンらが独自の活動を開始しました。

これらは、新しい時代の幕開けとなるでしょう。

 

 

2004年10月21日

 

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