稲荷はキリストである


反応がまったくないのが不思議だが、『稲荷はINRIだった』(2010年9月4日)の稲荷祭に関する記事はきわめて重大な発見である。


稲荷祭の氏子たちの7地域――お神輿(みこし)が巡幸する7つの地域――が、キリストが巡る黙示録の7つの教会と配置がまったく同じ。
http://kojiki.imawamukashi.com/05kosatu2/05inari04.html

この2つの地図を見比べていただきたい。

黙示録の7つの町と、稲荷祭で神輿が巡幸する7つの地域がまったく同じ配置であるというのは、どういうことだろうか?このような一致は偶然ではありえない。

つまり、稲荷祭を主催した人々が、黙示録を知っていたということだ。

稲荷の総本社は、京都市伏見区にある伏見稲荷大社である。

この大社、山城国稲荷山に存在する。稲荷山は、別名伊奈利山。

辞書によると、「伊」のつくり「尹」の意味は、「天地の間を調和する様を示」し、「伊」の字は「万事を調和する人物を示す」。

「奈」の字は、もともと「大」の字は「木」であった。

「示」は、犠牲が台の上にのっていて、そこから血が落ちる様を表す。

つまり、奈は、木にかかった犠牲を示す。

だから、「伊奈」は「万事を調和する人物が木にかかって犠牲となった」という意味になる。

これで稲荷がキリストを表すことがお分かりだろうか。

稲荷の神輿が巡幸する土地が、キリストが黙示録において小アジアをめぐる配置とまったく同じであるというのは、これで説明できる。

稲荷と秦は密接に関係している。

伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。

稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)二月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。

諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代に前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。いずれの説も今後の検証の必要がある。

雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てた。

(Wikipedia-稲荷神)

ユダヤ系キリスト教徒弓月王を先祖に持つ秦河勝が作った京都は、十字架の形をしており、頭の部分である船岡山に稲荷神社がある。

稲荷がキリストを意味するということは、以上のことから明らかだ。

 

 

2010年9月10日

 

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