オカマは罪か2
女性らしい男性という人はいてもよいと思う。または男性らしい女性とか。
こういったものは個性の一つと思うが、申命記22・5によれば、男性が女装したり、女性が男装したりすることは間違いだ。
今流行の、性同一性障害は、明らかに行き過ぎと言える。
自分がどちらの性に生まれたかは、神の召しであって、自分で選択できるもののうちに入らない。
我々が選べないものはいろいろある。人種、性、皮膚・髪・目の色、容貌、運動能力、知的能力、性格、家庭環境、職業適性・・・。
これらは、「受け入れるしかない」ものである。
これを決定するのは神であり、それゆえ、それを前提条件として受け入れるべきだ。
神の決定を受け入れられないことは、自分が神になることに等しい。
だから、マイケル・ジャクソンのように容貌をあれだけ変えると化け物になるのだ。
人間は、神から与えられた条件を受け入れてそれを磨くことによって健全な美が生まれるが、彼のように生まれながらの特徴を受け入れられず、それを捨てることは、神の僕になることを拒否した人間=偶像礼拝者の異常さを現す。
あなたの前に、性同一性障害者が現れて、「私はただ自然の気持ちを愛しているだけです。この気持ちは同じ障害を感じている人しか分かりません」といって来たら、ただこう言うべきだ。
「あなたに割当てられた分を超えてはならない」と。
若い頃は、「野球選手に生まれたらなあ」とか「スターに生まれたらなあ」と思うかもしれないが、分別がつくと、夢を見るのをあきらめて自分に割当てられたものを受け入れるようになる。
性同一性障害者は、「見果てぬ夢」を負う、ネバーランドの住民である。
夢を追うのをやめて現実的になるべきだ。
2008年5月8日
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