未来の世代にターゲットを絞ろう


(1)
人間が幸せになるかならないかは、神が決定する。神の規範に従うかどうかで祝福とのろいが決定される。

金銭や地位は関係ない。金持ちになっても、神の法、人が歩むべき道を踏み外した人間は幸いを手に入れることはできない。

平凡でも、人の道から外れないで生きている善良な市民には幸せが訪れる。

これが神の法であり、聖書の中心的なテーマの一つである。

しかし、人間の生活は複雑であり、そこに「強制」の問題が生じる。たとえば、善良に暮らしていても、政府がアホで、無意味な規則を作って市民生活を規制すれば、市民の幸せは減る。

たとえば、北朝鮮のように国や指導者が神の役割を演じて、恣意によって、移動の自由や職業選択の自由、言論の自由などを侵害し、本当の幸せを市民から奪う体制もある。

我々は、神が与えてくださる自由と幸いを、政府の妨害から守り、むしろそれを促進するようなシステムを構築する必要がある。

そのシステムの構築のためには、まず、人々が無神論やヒューマニズムを捨てることである。この世界が神によって創造されたことを認め、その神が聖書という文書の中においてご自身の御心を啓示しておられることを認めるべきである。

しかし、18世紀のアメリカに起こった空前絶後の革命によって、世界中の政府から神の名が消され、「政治は宗教的に無色透明の領域である」という神話が蔓延するようになった。

そのため、人間の頭が作り出した宗教によって、政治が運営されるようになり、「締めるべきところで締めないで、締めないでいいところで締める」的外れな政治が始まった。

御言葉が規範とならないため、無駄な規制と、必要な規制の不在、という2つの大きな問題が生じた。

どんなに政教分離という幻想を唱えても、「この世界は神の被造物である」という世界の基本的な事実は変わらない。今の政治は、神の固有の支配領域への侵害である。

神がご自身の目的のために創造した世界から神が追い出されている。

こういった異常な状態が続いているのである。

(2)
「政治において神を主としよう」というと、すぐにイスラム原理主義と結びつけて短絡的に否定評価する愚か者がいる。

教典に忠実であろうとする立場を「原理主義」という名のもとにひとまとめにして「危険だ」というなら、カルヴァンもルターも狂信者ということになるのだ。カルヴァン、ルターだけではない。ノックスやウェスレー、スポルジョンも狂信者か?

「近代ヨーロッパを生み出したところの宗教改革」者が狂信者か?「そして、そこから誕生してくる近代的な人間類型によって構築される近代の世界像」(ウェーバー研究者山之内靖)が狂信の産物なのか?

宗教改革が聖書信仰から出発したことを考えると、近代の文明的恩恵に浴しながら、聖書信仰者を狂信者と評価し、アルカイダと同等のものと評価する者は、親の膝に乗りながら、その親の顔を殴る子供のようなものである。自分が乗っている飛行機の部品を次々と解体して外に捨てている自殺者のようなものである。

「原理主義」という今流行の空虚なレッテルによって、対象をひとくくりにし、内容を具体的・個別的に検討するという地道な作業をすっとばして、いかなる反論もいかなる歴史的証拠も受けつけようとしない人間こそ、アルカイダと同等の「粗暴犯」であるから注意しよう。

どんなに教養があるふりをしても、彼らはこのテーマについては野蛮人である。

日本の学校教育では、歴史や思想について正しい知識は得られない。反キリスト的に偏向しているからだ。

どんなに高等教育を受けましたといっても、自学自習ができない人間は、こと近代史に関する限り「無知無学」であることをわきまえるべきだ。

(3)
我々は、このような偏向教育の哀れな犠牲者を前にして改革をすすめねばならない。

恐らく彼らは頭が固まっているから、このような偏見を捨てることができずに無知のまま一生を終えるだろう。だから、次世代、その次の世代にターゲットを移すべきである。

クリスチャンは、歴史的事実を人々に伝えるように努力しよう。進化論が大嘘であることを子供たちに教えよう。

今の一般人が「偏向・狂信」と考えている聖書信仰者こそが、近代を作り、歴史をプラスの方向に導いた功労者であることを教えよう。

このような地道な活動がない限り、世界の思潮はいつまでたっても、「近代はヒューマニズムが作った。キリスト教は反動勢力に過ぎなかった」という大嘘を信じて、自滅の坂道を転げ落ちることだろう。

政治の改革は、まず教育からである。

偏見に頭のこり固まった大人を相手にするよりも、柔軟な子供からはじめるのが効果的である。

 

 

2004年8月18日

 

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