本物のクリスチャンは権力や能力に頼らない



あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6・3)

クリスチャンには、報いを汚らわしいものとみる傾向がある。

「いかなる報いも期待せずに行うべきだ」と。

聖書は、そのように述べていない。

聖書は、「報いを期待せよ」との言葉に満ちている。

人間は報いを期待しないで行動できない。仕事をする際には、報酬を期待する。

これは当然のことだ。

10やったら10の見返りを求めないでは経済は成立しない。

店で安売りをしたからと言って、それが報いを期待しないでやっているわけではない。安売りすることによって、客を集め、数を集めて合計額を伸ばす方法だ。

見返りを求めない経営者がいれば、それは愚か者だ。

聖書では、報いは禁じられていない。報いを禁じる思想は、禁欲主義であり、偽善である。

しかし、聖書が述べている報いは我々一般に信じられているものとは違う。

「施しをするときには、隠れてしなさい。」「祈るときは、奥まったところでしなさい。」

つまり、人に見せるためにするなということだ。

人からの報いを期待するなと。

日本人はこのことをよく理解している。だから、海外支援しても日本がやったことがあまり評価されていないことが多い。

外国人は、やったことを宣伝する。

しかし、日本人はそういうこれみよがしの行為が嫌いだ。

これは、おそらく聖書の伝統があるからだと思う。先祖からそのように伝統を受け継いでいる。

聖書には、理由が記されている。

「人からの報いを受けると、神からの報いを受けられないから」と。

人間に報いてもらうと、神からの祝福が減ってしまう。

だから、善行は隠れてしなさいと。

聖書を貫いているのは、「人間からの報いは一時的だが、神の報いは永遠だ」という思想だ。

もし我々がある慈善事業をしたとする。それを売名のために行ったら、人間から賞賛される。

しかし、それまでだ。神からの報いが受けられないので、永遠の世界において報いはない。

一生を慈善事業に費やしても、売名でやれば、昇天後、報いはないと宣告されるだろう。

これは愚かだとイエスは言われる。

この世の冨など一時的だ。しかし、永遠の世界における富は永遠だ。

だから、この世界において売名をやることは、結局損なのだ。

昇天したら、我々が今日見るのとはまったく違う世界が広がっているだろう。

無名の人々が大金持ちになって、有名なクリスチャン事業家が文無しになっている可能性もある。

このような話をしても、ピンと来ない人、つまり、この世がすごく大きなことに思っていて、永遠の世界のことが現実として受け取れない人は聖霊によって考えていないのだ。

聖霊によって考え方が変わると、永遠の世界のほうが現実的に見えるようになる。

この世界が仮の世界で、あの世界が本当の世界だと分かってくる。

目が開けるとこう考えるようになる。

パウロは、信仰に生きた人々を列挙する中でよみがえりについて真剣に考えていた人々について述べた。

・・・またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。(ヘブル11・35)

釈放されるよりも、拷問を受けたほうが、後の世においてすぐれた地位につけると考えた。

現世よりも来世のほうが重要だと考えたからだ。

ただし、釈放される機会をわざわざ逃して拷問を受けるという態度がいいかどうかについてパウロはここで何も言っていない。強調点は、「来世に意識を集中できるほどすばらしい信仰を持っていた」ということだ。

信仰が進み、霊的な世界が見えてくると、天や地獄が見えてくる。

いかに天がすばらしいところか、また、地獄がいかに恐ろしいところかが分かってくる。

信仰が幼い人は、この世だけが大きくなって、今の世でどう利益を受けるかに集中する。

だから、霊的なことに投資する価値が分からない。

すると、どうしても人間の目が気になる。この世界での評価などが重要になってくる。

勲章をつけたがる指導者にはついて行かないほうがよい。

学位を取ることによって箔をつけたがる人とか。

学位とは、盲目な人向けだ。

人を見抜く力があれば、学位などなくてもすむ。

人を見抜けないから学位などに頼るのだ。

こういう人々のグループには入らないほうがいい。

互いに勲章を付け合って満足しているようなグループには。

この世界を本当に動かす人は、信仰だけでやれる人だ。

これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。(ゼカリヤ4・6)

本物のクリスチャンは、権力や能力に頼らない。御霊に頼る。

 

 

2009年12月21日

 

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