律法はいのちを与えないか?22


ガラテヤでパウロが批判しているのが「律法主義者の律法」であると、詳しく説明したのにまだごねている人がいるんですね。

いいですか。

繰り返すと、律法の本来の意味は、契約の箱に示されている。

十戒の二枚の板は、契約の箱の中に収められていた。

契約の箱の蓋は、「贖いの蓋」(ヘブル9・5)と呼ばれていた。

これは、十戒が直接人間の目に触れることがないためであった。十戒を直接見ると、人間は必ず死ぬ。

これは、律法の責めに人間が耐えられないことの象徴である。

だから、人間には「贖いの蓋」が必要である。

これは、イエスの犠牲を象徴している。

イスラエル人には、律法は剥き出しで与えられていたのではなく、贖いの蓋で覆われた状態で与えられていた。

これは、イスラエル人が贖われた民であることを象徴している。

これが、本来の律法の意味である。

律法とは、イスラエルにとって「贖い主によって安全化された律法」なのです。

それに対して、ガラテヤの「割礼派」の人々は、「律法によって救われる」と説いた。

このような律法は、贖いの蓋で覆われていない律法であり、本来の律法ではない。

パウロが反論したのは、このような異常な律法のことであって、本来の契約の箱に収められた律法ではない。

もし、契約の箱に収められた律法に対しても反論したと言うならば、どうしてパウロは聖書のほかの個所において、「律法も言うように、…しなさい」とか「信仰は律法を確立する」とか、「律法にはこう書かれています。…」とか述べたのか。

それは、彼が「契約の箱に収められ毒を抜かれた律法」については反論しなかったということでなくて何だろうか?

これでも分からなのでしょうか。

分かりやすい説明だと思うんですけどねぇ。^^;

 

 

2005年10月17日

 

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