一致と自由を両立させる道


(1)
あと1000年後の世界を見渡せば、恐らく、「一と多」の原理は社会の隅々にまで浸透していることだろう。

「一と多」の原理を社会の様々な領域に適用するという考えを具体的に言い出した人は、世界の神学界でも、ごく少数である。

しかし、ごく少数とはいえ、これは当然のことなのである。これは、歴史的必然なのである。

なぜならば、それは神の原理だから。

神が三位一体であり、統一も多様性もどちらも究極のお方なのであるから、当然、神の似姿である人間と世界は、この本質を反映しなければならない。

(2)
この世界において神を超える基準は存在しないのである。つまり、神ご自身が基準なのである。

となれば、神から遠いものは、誤謬であり、神に近いものが正しいということになる。

「神は正しいか」という疑問は間違っている。神よりも先に「正しさ」という基準が存在していたことを前提としているからである。

万物が無から創造されたということは、基準も神から出たということである。

ということは、神を裁く基準など存在しないということになる。

だから、我々は「神は正しいか」とたずねてはならない。「神を正しさの基準とする」というのが正しい。

それゆえ、正しい人間とは、神に似ている人であり、正しくない人とは神から離れて、神に似たところが少ない人なのである。

このような判断以外をする人は、みな「人間は、ものさしを使って神を計測することができる」と考えるヒューマニストである。

神を計る人は、1mの原器に向かって「これは1mか計ってみよう。」と言う人と同じである。

(3)
だから、我々も社会も、できるだけ神の御姿に近づくことが「成長」であり、それを助ける行為が「愛」なのである。

相手の女性に「愛している」という不倫男性の「愛」とは愛でもなんでもない。

彼は相手の女性を神から引き離しているのである。その女性はだんだん神に似ない者になっている。

神から離れることが「悪」なのであり、「悪」はその女性にとって害なのだから、彼は彼女を愛しているのではなく、憎んでいるのである。

我々は「愛」を、「神に似るように手助けすること」と定義できる。

また「憎しみ」を、「神に似ないように手助けすること」と定義できる。

愛とは人の耳障りがよいことを語ることではなく、相手が神に似るようになるためにあえて苦い忠告をすることも意味する。

(4)
人間も社会も、三位一体の神に似るべきである。
そのためには、「一と多」の原理を自分自身と社会に適用しなければならない。

我々が子供を愛するときに、その基本は子供が神に似るように導くことであるが、具体的には、それは「一と多」の原理に従って生きるように導くことである。

では、「一と多」の原理に従って生きるとは何か?

それは、「絶対に変えてはならない、永遠に守りつづけなければならない基準を守り(一)、時代と場所などによって変化するものに柔軟に対応する(多)ということ」である。

世に言う頑固者も、軟弱者も、聖書的な人間とは言えない。

頑固者は、永遠不滅でもない価値を、あたかも不滅の価値であるかのように言い、それを人に押し付ける。

軟弱者は、永遠不滅のものをも変化すべき一過性のものと考えて、聖書を否定し、聖書の掟を破り、また、人に破るように教える。

我々人間にとって絶対に死守しなければならないのは、聖書である。

聖書は、永遠不滅の神の御言葉であるから、それを「多の領域のこと」としてはならない。

聖書以外のことは「多の領域のこと」である。

(5)
具体的に言えば、

異端者に寛容な顔をするな、ということである。

それ以外では寛容であってもよいが、教えという点では絶対に寛容であってはならない。

ノンクリスチャンに向かって「それはだめだ!承知しないぞ!」というのは間違いだ。

なぜならば、彼らは教会のメンバーではないから。

教会のメンバーで、なおかつ聖書の明確な教えに違反するとか、罪を犯して悔い改めないとか、やっているならば、そのメンバーに対して除名を宣告し、教会から追い出すべきだ。

また、教育で言えば、子供が倫理的に違反した場合には、子供を厳しく処罰しなければならない。

今の親は相対主義の荒波の中で、まったくわけがわからなくなっている。

物分りのよい親を気取って、子供の非行を黙認する。

こういった「一の領域に属すること」についてタガを緩めるので、怪物が育つのである。

9年間も少女を監禁して何年か前に逮捕された新潟の中年男は、徹底的に親に甘やかされ、母親は彼の奴隷になっていたという。

反抗すると殴るけるの暴行を加えた。こういった化け物を育てたのは、「締めるところで締めず、締めなくてよいところで締める」という的外れの教育であった。

(6)
知恵とは、「御言葉に従うこと」である。

聖書に書いてあることをことごとく自分の上にある権威として読み、それに絶対服従することである。

この基準について我々はこれから権威づけの土台を作っていかなければならない。

ここ200年の間、聖書の権威に対する様々な攻撃が加えられてきた。

リベラリズムとディスペンセーショナリズムというサタンの攻撃をはねつけて、聖書を不動の礎石とし、家庭、国家、教会を築き上げる必要がある。

一致と自由を両立させる道はこれしかない。

 

 

2005年3月15日

 

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