我々の行動の基礎を神の内部における契約に置くべきだ
このエッセイの末尾の引用において、ヴァン・ティルは、三位一体の神の内部の契約関係を人間の存在・認識・倫理の基礎としている。
つまり、我々が、なぜ存在し、(聖書を通じて)真理を知り、倫理を確立できるかというと、それは、神の三位一体の内部においてそれらが「契約的に」決められたからだと。
神は永遠において、ご自身の互いの間で、世界をこのように創造し、このように歴史を導き、このように救いを定め、このように救いを有効化し、このように救いを人間に適用しようと計画され、それを「合意」によって定められた。
この神ご自身の間の互いの合意が絶対確実であるがゆえに、聖書信仰に立つ我々の存在も、認識も、倫理も確実なのである。
ヒューマニズムにおいて、この神の間の合意・契約は、人間が行うこととされた。
人間がトップの座に座り、人間の計画、契約、合意が究極となった。
神はもはや最終参照点ではなくなった。
デカルトの「我思うゆえに我あり」の原理が適用されて以来、世界の経営権は、神から人間に移行した。
以前は、経営者理事会は、神のペルソナであった。神の三位が互いの間で合意し、決定していた。
しかし、人間は反逆し、経営権を奪取した。
経営者理事会に名を連ねているのは、人間だけである。神は経営に参画していない。人間は互いに合意し、「世界をこう動かそう」と取り決めた。
だが、人間は、どこまで行っても有限である。確実性からほど遠い。
人間の反逆以降、我々は行き当たりばったりの不確かな人間の知恵に振り回されている。
霊的な意味で言えば、悪魔が経営者を惑わすので、会社は必ず倒産する。
もし我々が確実な人生、確実な世界を期待するならば、経営者を人間から神に移すことである。
世界を御言葉に基づいて解釈し、運営すべきである。
御言葉は、神の永遠の契約、三位の間で取り決められた事項であるから、絶対確実である。
それゆえ、契約関係は、有限者が無限者に対して立つ唯一の関係である。というのも、神の三位一体の永遠のペルソナは、契約関係において互いに対して立っているからである。「神において一つの意思しかないのであるから、三位一体内部における契約関係について語ることはできない。」ということは有効な反論ではない。同じ主張は、純粋な人格性をも破壊するだろう。たしかに、神において意思は一つしかないが、ここにはまさに神のペルソナの神の実体に対する関係が存在する。
さらに、被造物に対する神の御心は一つしかないが、3重の関係が存在する。御父は、時間の世界において、創造であれ贖罪であれ、あらゆる活動の究極の源として常に表現されている。というのも、御父は、神の本質の内部において、永遠において御子を生み、御子は第二であり、御霊は完成者であるからである。神は世界を創造されるが、それは、ロゴスを通じてであり、御霊は、虚空の上を舞いかけ、創造を完全な姿に整え給う。それゆえ、贖罪の歴史において、御父は平和の契約の建築士であり、御子は三位一体の第二位格として人の子、受肉した神となり、聖霊は救いを心に適用され給う。
Van Til, Cornelius, "Calvinism And The Will; Decree And Covenant in The Works of Cornelius Van Til, (New York: Labels Army Co.) 1997.", The Works of Cornelius Van Til, (New York: Labels Army Co.) 1997.
2008年10月26日
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