自分で裁きを下してはならない
キリスト契約の中にいる人と外にいる人の見極めは難しいが、時間とともに明らかになる。
キリスト契約に入るには、信仰を告白して、バプテスマを受けること。
これは、誰でもできる。本当は信じていないのに、信じたふりをして入る人間もいる。
だから、キリスト契約の中には、本当に選ばれている人と選ばれていない人が混ざり合っている。
入会に際しては、牧師がその人の様子をある程度みて、洗礼にふさわしいかどうかチェックするが、チェックは完全ではない。
そこで、教会の長老会は、何らかの問題を契機に判断を下して、あるクリスチャンを契約から追い出す(聖餐停止もしくは除名)ことがある。
その場合、拙速は禁物である。
イエスは、「早めに抜くと本当の麦を抜いてしまう恐れがあるから、実るまで待ちなさい。そうすれば、毒麦を除くことができる」と言われた。
そのクリスチャンが本物であるか偽者であるかは、時間が決定する。
偽者は、必ず時間とともに内実をあらわにする。
つまり、「具体的行動」としてあることを行う。
具体的には、何らかの罪を犯してそれを「悔い改めない」。
罪を犯しても悔い改めるならば、その人は兄弟である。
7x70回許せ、と言われているので、教会は、悔い改めてやり直すことを何度でも許さなければならない。
しかし、その人が「悔い改めません」と頑固に主張するならば、除名以外に方法はない。
その人は教会から追い出され、契約の外に放り出される。
契約外の人間は、キリストの救いの対象外になるので、自分の罪のゆえに地獄に落ちる。
聖書から何らかの悔い改めの促しを受けた場合、たとえ教会が違っても、その勧告を受け入れて、悔い改めるべきだ。
それを避けるならば、たとえ母教会が許しても契約から除外されることがある。
母教会が罪を放置することがあるからだ。
しかし、正当な手続きは、まず母教会に訴えるべきだろう。そして、その母教会が裁くことを拒むならば、母教会を超えて、契約からの除外が行われる。
だから、母教会の会員でありながら、地獄に落ちるということになる。
神は侮られる方ではない。20年経った今になってある牧師の昔の問題が2chで取り上げられている。
我々元教会員たちは、神を恐れて、2chなどで訴えたりはしない。
だから、20年間、ずっと問題は公にならなかった。
しかし、今になって、問題が2chの無法な人々によって暴き出されている。
「あくまでも逆らう者には残忍な使者が送られる」とあるが、そのとおり。
我々がやらなくても、神は必ず「悔い改めない」人々の過去の罪を暴き出して、公の光に照らし出される。
だから、「徹底して相手を懲らしめてやろう」なんて考えないことだ。
待っていれば、必ず悪は処罰される。
「悪者が裁かれたときに、喜んではならない。神が裁きの御手をとどめることがないように」とあるように、我々は、たとえ神がその人々を裁かれたときでも、喜んではならない。我々が喜ぶときに、神はその裁きの手をストップされ、相手に対する処置が中断してしまう。
あくまでも我々は黙って、神の裁きを恐れおののきながら見るべきである。
自分で裁きを下してはならないのだ。
2010年8月16日
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