本当のクリスチャンは万物を契約的に見る
我々がものを見るときに、いかなるフィルターもかからない目で見ることは不可能である。
我々は、自分の世界観によって物事を一瞬一瞬解釈しながら見ている。
「僕は宗教を信じていないから偏見はないよ」という人は誤解している。
偏見を持たないで物事を見れる人は一人もいない。
なぜならば、人間は「意味づけをする動物」だからだ。
コンピュータのように与えられた情報を雑多に無秩序なままにメモリーに蓄えることはできない。
何らかの解釈をつけて意味を与えながら記憶する。
その世界観が正しい場合に、物事の秩序付けも正しくなるが、正しくないと秩序付けも正しくなくなる。
例えば、ヒトラーのように、ユダヤ人を劣等人種とみる世界観を持っていれば、強制収容所で死ぬまでこき使うというようなことができるようになる。
「世界観に基づかないで解釈をしない」人は一人もいないのだから、誰でも宗教家であり、物事を偏見を持たずに見れる人などいない。
偏見があるかどうか、が問題ではなく、(語弊があるが)正しい偏見かどうか、が問題である。
世界観が正しければ正しく見れるし、間違っていれば間違って見える。
聖書的キリスト教において、世界は人間が「神の栄光を現す文明を築くために」作られた。神と人間は契約を結んでおり、人間は神のために世界を文明化するために創造された。
それゆえ、万物はこの契約の文脈の中で見なければならない。すべては「主人である神と僕である人間」という契約関係の文脈において創造され、また存在している。
だから、これ以外の意味を物事に付与してはならない。
この契約から独立して存在する「神の栄光のためではないもの」は一つもあってはならない。
赤いサングラスをかければ、すべてが赤く見えるように、我々の目には、すべてが「契約的に」見えなければならない。
目の前のコンピュータは「契約的コンピュータ」である。科学は契約的科学であり、教育は契約的教育である。
すべては契約的という形容詞をつけなければならない。
司法だけは聖書的キリスト教と無関係だと言うことはできない。この世界に契約から除外できる領域は一つもない。
一つでも除外できる領域を作ることは、神を万物の創造者と認めないと言っているのと同じだ。
これは、神を神の座、主権者の座から引き摺り下ろすことに等しい。
こういうことを言うクリスチャンは、革命家であり、契約の中から追い出される。
彼または彼女はクリスチャンではなく、キリストの体の一部ではないため、聖餐を授けてはならない。
永遠の命の書から名を消されるべき人である。
救いを受ける本当のクリスチャンにとって、この世界、万物は、神の被造物であり、それゆえ、神と人間の契約的枠組みの中でとらえ、解釈するはずである。
2008年4月30日
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