間違った共同体の考え


今、鹿児島で、開業しているお医者さんが、我々と同じ考えで、独自に伝道所を開いておられる。

無牧になったので、自ら説教されている。

セオノミーとポスト・ミレに基づいて説教しておられる。

非常に画期的なことだ。

神の国の最前線基地である。

既存の教会は、大なり小なりエキュメニズムに毒されてしまった。

エキュメニズムとは、カトリックもプロテスタントも関係なく、すべて教会は合同すべきだという考え。

「細かいことはいいから、仲良く合同しよう」という。

これは、大きな間違い。

なぜならば、「合同すること」「和合すること」は究極の価値ではないから。

もし和合することが究極の価値であるならば、サタンと和合することも価値なのか?

和合することを究極とする理念は、ヒューマニズムのそれである。

これは、騙しだ。

「争いは罪です。仲良くすべきです」というのはそれ自体間違いではない。

和合には条件がある。「それは聖書を絶対的基準とするか?聖書と違うものを捨てる用意があるか」である。

この条件を守れないキリスト教とは和合などできない。

それは和合ではなく、姦淫である。

「財産の独り占めはよくない。一人だけ富を得て、他人が苦しんでいるのを放置するのはよくない。」という意見はそれ自体では間違いではない。

しかし、「だから、政府が強制的に徴税して、それを分配するのはよい」ということにはならない。

「いや、だって聖書にそう書いてあるではないですか。使徒たちの仲間は誰でも自分のものを持ち寄って私有を主張しなかった」と。

あれは、「自発的」だったのだ。

強制ではない。

社会主義とキリスト教の違いは、強制か自発かの違いだ。

社会主義とは、強制による搾取だ。

キリスト教の共同体とは、「私有財産を厳格に守る」という基礎の上に成立する。

「盗んではならない。他人のものをほしがってはならない。」という十戒を基盤としている。

我々に課せられた義務とは、10%未満の税金と、10%の福祉だ。

それ以外は、自由に使える。少なくとも80%手元に残る。

こういう制度でなければ、社会は必ず疲弊し、いずれ崩れる。

共同体が、聖書を捨てれば、崩壊するのだ。

だから、自分の知恵に頼る人は愚かなのだ。

税金を10%以上取られれば、企業や家族には強い足かせ手かせになる。

特定の人々だけに金が回る。政治家や国とつながっている人々に偏って富が分配される。

10%以上の福祉がなければ、社会に貧困者が溢れて、社会不安になる。

とてもエデンの園にはならない。

国がなぜ10%以上の税金を取りたいかといえば、権力だ。

金を手にするものは権力を手にする。

だから、彼らは金がほしい。

社会福祉のためなどというのは、きれいごとだ。

福祉を通じて支配を強化しようとしている。

聖書に従わないと、こうやって国の奴隷にされる。

だから、馬鹿じゃない人は、聖書に従って税制を練り直すべきだ。

「へ〜、聖書ではそうなんだ。」というだけでは何にもならない。

実践しなければ。

共同体に関する間違った考え方が広まっている。

それは、共同体を築くのではなく、破壊する。

 

 

2009年12月11日

 

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