クリスチャンはノンクリスチャンと別の科学的体系を作るべきだ
クリスチャンとノンクリスチャンの基本的な違いは、権威をどこに設定するかである。
クリスチャンは、聖書に置くが、ノンクリスチャンは、理性に置く。
主にノンクリスチャンは、科学的な事実を信用する。
しかし、クリスチャンは、科学的な事実は最終権威ではないと考える。
だから、科学者が何を言おうと、それを聖書のフィルターを通して受け取る。
「いやいや、それは妄信ではないですか?」と言われるかもしれない。
科学的検証を得ていないものを信じることは必ずしも妄信ではない。
なぜならば、科学を信じる人々ですら、「科学的検証は絶対だ」と言えないからだ。
とくに再現性のない事柄については、科学ですら非常にあいまいなことしか分からない。
科学におぼれ、すぐに科学者のことを信じるクリスチャンたちは、「今の科学ではこういうことになっています。だからアブラハムがこの町にいたという事実はない」と言われると、たとえ聖書にそう書いてあっても、「そうですか」と認めてしまう。
こうやってそのクリスチャンは、権威というもっとも重要な問題において、妥協し、実質的にクリスチャンであることを止めているのだ。
我々は、キリストを信じて契約に入った。この契約にとどまるもっとも基本的な条件は、「聖書を無誤無謬として受け取り、聖書を基準として考える」ことである。
アダムは、この条件を無視したために、サタンに騙されて堕落してしまった。
「神はそういわれるかもしれませんが、事実はこうです。実を食べなさい」とサタンの誘いにホイホイ乗ってしまった。
権威を変えたことが堕落の原因であった。
だから、我々は御言葉を基準以外のものとして受け取ってはならない。
聖書に基づいて、科学の教えの中で取捨選択をするのだ。
科学を聖書の上に置いてはならない。
どんなに妄想者呼ばわりされても、貫くべきだ。
こう考えると、クリスチャンは、学的な体系を独自に構築すべきだと思う。ノンクリスチャンに権威をゆだねると、変な方向にひっぱられるから、クリスチャンで独自の科学的体系を作るべきだ。
その科学的体系では、「聖書に基づく限りにおいて真理、そうでない場合は、虚偽とすべし」という大前提を置く。
我々は、ノンクリスチャンとまったく異なる人種なのだから、知的なシステムについても、そのように振舞うべきだ。
2008年12月8日
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