革命的手法は社会に不自由をもたらす第一の元凶である
教会で問題が発生する場合に、「牧師の権威に逆らうな」ということをさかんに講壇から語られる場合がある。
しかし、牧師に権威があるのは、「聖書に基づく」場合に限られる。
牧師が、聖書に基づかない権威を振りかざすならば、それは、独裁であって、神の国を破壊するものである。
使徒的継承は、人間的な権威によるとする人々がいる。
イエスは、ペテロに対して「この岩(ペテロ)の上に教会を建てます」といわれた。
しかし、それは、ペテロ本人に対してではなく、その直前に告白された信仰にである。
つまり、「ペテロが告白した信仰の上に」教会は建つということだ。
ローマ・カトリックは、信仰ではなく、ペテロ本人に権威が与えられたと考える。だから、ペテロから順に権威が継承されているローマ・カトリックだけが教会だとする。
これは、人間崇拝以外の何物でもない。
高教会的な運動もこれに類している。
そういった人間的権威に根ざした運動は容易にサタンに乗っ取られる。なぜならば、信仰内容ではなく、人間そのものが権威とされるならば、その人間に憑依することによって、サタンは自分の支配をシステム化できるからだ。
人間は堕落する。人間の制度も堕落する。
だから、人間そのものに恒久的な権威が置かれるなどということはありえない。
教会は、あくまでも「イエスがキリストであるという告白」の上に築き上げられる。使徒的継承は、聖書を通じてである。つまり、使徒の教えは、聖書に書き記されているので、聖書が使徒的権威を持つと考えるべきだ。
だから、教会が堕落して、聖書に反する教え、イエスを否定する教えを採用するならば、そこでその教会は権威を失うことになる。
その場合、しかるべき措置を講じて牧師や役員を追い出す必要がある。
聖書に基づかない教えを説く牧師や役員は追放すべきである。聖書を無視することは、使徒的継承を無視することだから。
教会がそれをしないのであれば、そこから出るしかない。
ネットで行われる教会批判が問題なのは、教会の権威批判そのものにあるわけではない。
問題は、「しかるべき権威をすっ飛ばして革命的なアナーキーな方法を講じる」ところにある。
自分の親は自分にとって権威である。それは、神が与えた基本的な権威である。
しかし、親が、独裁者になり、DVを行うなどした場合には、その権威を否定して絶縁し、そこから出ることが可能である。
つまり、独立して家を出ることができる。
しかし、親に対して暴力を振るうとか、親を殺すとか、そういった方法は間違いである。
あくまでも我々は、神が与えてくれた権威として親を敬う姿勢を保ちつつ、絶縁すべきだ。
イルミナティがフランス革命、ロシア革命を扇動して成功し、それ以来、左翼思想が世界にはびこった。
それは、教育の現場にも入った。
60-70年代の造反運動時代に、教会の中でも牧師に対する不遜な態度が目立つようになった。
とくに労働組合運動なんかに関わっている教会員が、牧師をつるし上げるような無礼な態度を取る光景が見られた。
権威に対する態度が、聖書から正しく教えられていないからだ。
概して、今日でも、教会員には、聖書よりも、革命思想、左翼思想が大きな影響力を持っている。
それが、ネット上の牧師たたきに現れている。
どんなに腐った教会や牧師であっても、無法な方法を取るならば、自分が裁きの対象になることをわきまえ知るべきだ。
シーシェパードが問題なのは、彼らが法的手段に訴えることをせず、実力行使をするところにある。
彼らは、法的手段という正当な権威の階段を上ることを避けて、直接捕鯨業者を攻撃することによって問題を解決しようとする。
これも革命的手法であり、イルミナティ的だ。
秩序破壊は、サタンに由来する。
だから、60-70年代の学園紛争によって、何が日本社会にもたらされたかというと、「相互不信」である。
私が大学に入ったころは、夜でも校門が開いていて、自由に入ることができたが、学園紛争がおきて、校舎内が厳重に管理されるようになった。
革命は、不自由を生み出すのだ。
自分では正義の味方のように思ってやったのかもしれないが、革命は、ことごとく、解放とは逆の結果を生む。
革命的手法は、社会に不自由をもたらす第一の元凶である。
2010年8月18日
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