近くにおられるうちに主を求めよ


事故当日にJR西日本の職員が事故を知りながらボウリング大会を開き、その後二次会で酒を飲んだという。

とんでもない会社である。国鉄時代の役人意識がまだ抜けていないのだろう。

信賞必罰がしっかりしていない国有企業に属している期間が長ければ長いほど、そこに属している人間が堕落する傾向は強い。

国全体で見ても、ソ連の影響下にあった諸国では、国民の意識から「自助努力」が欠落している。

社会主義諸国の国民は、国を自分の生活の面倒を見てくれる父親のようなものと見ている。

しかし、国とは、民の労働収入から得られる税によって成り立つ組織であるから、民がしっかり働かなければ国も国民に対して何も保証できないのである。

しかし、社会主義国の国民には「国には打ち出の小槌がある」という共通の幻想がある。

だから、自分に任せられた部署において不足や赤字が生じたら、もっと大きな部署にその責任を押し付け、その部署はさらに大きな部署に責任を押し付ける。

上位に押しつければ何とかなるという考えが国中に蔓延すると、国家の滅亡は間近である。

上にあげたって解決できないものはできない。国の上級官僚たちが、打ち出の小槌を振ってくれれば何とかなると信じても、彼らには何もないのだから、最後には自分たちにツケが回ってくる。

聖書は、こういった幻想を否定している。

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」(ルカ16・10)

小さい事に関して責任を取れずに、問題を先送りしたり、上に回すことが許されるような組織は大きい事に関しても責任が取れない。

自分の会社が起こした未曾有の大惨事を知りながら、ボウリングができ、慰労会を開くことができるという神経は、その組織全体が堕落していることを示している。

このような大きな問題が発生する背景には、いたるところにおいて、小さな責任回避の積み重ねがあったはずだ。

どの組織でも言えることだが、破局の前に神は必ず悔い改めを促す人物を起したり、送り込まれる。預言者である。

彼または彼女の細い声は、次第に太い声に変わっていくだろう。

それでも耳を傾けないならば、大きな裁きに見まわれる以外にはない。

悔い改めることを拒みつづけた人間には、面罵する人間が送り込まれる。

今、自分が誰かにひどく罵倒され、叱責されているならば、神から送られた悔い改めの促しを頑固に無視し続けなかったかどうか過去を振り返って反省してみるべきである。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ55・6)

 

 

2005年5月5日

 

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