律法はいのちを与えないか?6
<LUKE様>
ディスペンセイション神学が、恵みと律法の関係をそのように排他的関係として理解しているとは、私の認識不足でした。私はディスペンセイションを原義的意味の「いのちを分与すること」の意味で使っているだけですので。
<tomi>
日本のディスペンセーショナリズムは、このような「律法と恵み」の対立関係はあまりにも現実的ではないということで、律法の時代の中に恵みを入れている人もいますが、土台このような分け方には無理があるので、ディスペンセーショナリズムを全廃してしまったほうがよいと思います。
時代によって統治原理が異なるという考え方は聖書にはまったくありません。神は一人の神であり、法は一つの法です。
神が絶対であるならば、法が複数あるわけがありません。
曽野綾子が、旧約時代は裁きの神で、新約時代は愛と赦しの神という分け方をしていましたが、これでは多神教になってしまいます。
多神教の神は、領域領域において統治神が異なると考えます。学問には学問の神様、結婚に関しては縁結びの神様…と。
今日流行の、「政治に関して聖書は何も言っていない」というのは、半ば神を多神教神扱いしているわけです。
聖書の神が全知全能の絶対神であるならば、神が統治することのできない領域はなく、また、統治者であるならば、神の法が適用できない領域はないのです。
ディスペンセーショナリズムについては、Loraine Boettner "Millennium"(P&R)をお勧めします。
<LUKEさん>
教界の現状に対する富井さんの問題意識は共有することができます。私の対策は、十字架の正しい意義を回復し、死と復活を通して働くいのちの法則の力を経験することが必要と考えています。
「律法が人気がない」のはニッポン人の精神病理である強迫性と非常に関係していると思います。
<tomi>
律法の正しい意味を教えられていないからだと思います。
一般に、教会では、律法は、「わざの契約に属するもの」として扱われています。
「わざの契約」とは、すでに述べたように、「それを行って永遠の命を獲得するための契約」です。
アダムは、永遠の生命をもらうための試験に失敗しました。それ以来、人間にとって試験は永久に中止です。
なぜならば、アダムは全人類を代表しているので、アダムの子孫は、生まれながらに「落第生」だからです。どんなに懸命に正しい生活をしても、アダムから生まれた以上、失敗者です。
そもそも、彼は、試験を受ける資格をまったく失っています。
それゆえ、キリストは、アダムの子孫であってはならないのです。アダムの血を受け継がないためには、処女降誕しかありませんでした。
キリストは、新しい人類の初穂として生まれました。
新約の契約とは、このキリストにつながれることを意味します。
キリストの御体の一部、つまり、キリストの子孫になるのです。
アダム族からキリスト族に移るときに、我々は、キリストにあって律法を完全に守った者とみなされます。
それゆえ、律法を完全遵守した者にだけ与えられる「いのちの木」から取って食べることができるのです。
<LUKE様>
ともあれ、今回のディカッションで富井さんと私との間で共有できる部分と違いのある部分が分かって収穫がありました。
<tomi>
「富井さん」ではなく、「正統派プロテスタント」と言ったほうがよいかもしれません。
私は、ここにおいて、自分の神学校や正統派プロテスタントの著者から学んだもの以外を述べておりませんので。
2005年10月12日
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