予定論
> 旧約聖書に、神が人間に対して
> 「お前が救済されるかされないかは、予め神が決めるのである。
> すべては神が決める。神を条件づけるな。
> 神に命令するな。神を試すな」
> といって怒るという話があるそうなのですが、
> これが聖書のどの話なのかをしらべています。
> このことも教えていただければうれしいです。
これは旧約聖書のヤコブとエサウという兄弟に関する、新約聖書のローマ書におけるパウロの説明がいいでしょう。
約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」
このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。
聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。
こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。 (ローマ9・9−20)
2007年6月2日
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