ビリー・グラハムと米国の世俗化3


T: フィニー/ムーディは、まだましということですね。


tomi:
そうです。
神学が、意図的にある方向性を与えられてゆがめられた。その方向付けを行ったのが、メイソン・イルミナティだと思います。健全な神学が消えていき、ついに、学ぶ人はそういった信仰を強めるような学びがどこにおいてもできなくなるような状況を作ってきたということでしょう。

今では、N神学校でもバルトですから。

バルト→新福音主義→エキュメニカル→霊的混沌

こういう流れが作られてきた。

T:
学校教育も医療もそうですね。「論より証拠」の体験主義が台頭するようになる。
特殊例が、いきなり普遍化される。
渡辺先生が「キリスト教綱要」の新しい訳を出された、しかし、それこそ「『キリスト教綱要』リバイバル」が起こらずに「バルトを読み直そう」になっている。
文芸評論家の富岡何とか氏が「自分はバルトの『教会教義学』で救われた」とか言っていましたけれども。

tomi:
自然主義は根強いです。バルトは、結局、「目によく、食べるのによさそうな実」だからという理由で、「食べてはならない実」を食べることを正当化する教えです。だから、普遍救済主義になった。

ビリー・グラハムとバルトってのは、新福音主義で共通している。そして、それは、統一教会とも。

これで、福音派には、統一教会と手を組むいかなる障害もなくなったわけで。
全部バベルの塔になった。
だから、福音派にいれば安全という時代ではない。
いやむしろ、福音派から出るべきときが来た。
これだけエキュメニズムが浸透すると、もはや彼らを変えることはできないでしょう。

滅びに向かってまっしぐら。
崖から落ちて溺死でしょう。
その豚の群れから逃れる以外には手はない。
仲間でいると、いつのまにか海中に。

 

 

2010年8月30日

 

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